リバプール・アンド・マンチェスター鉄道
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なお狭い車体幅のため、客車の狭苦しさの結果後述の最初の鉄道事故の原因ともなり、また対向する線路に列車を走らせながらの保線作業も非常に危険なものであった。
開業ウォリントン - ウィガン有料道路(Warrington - Wigan turnpike road)を横断するスチーブンソン設計の橋(ニュートン=ル=ウィローズ駅付近)

1830年1月の最初の試運転を経て同年の9月15日、マンチェスターのリヴァプール・ロード駅(Liverpool Road railway station)(現在のマンチェスター科学・工業博物館(Museum of Science and Industry in Manchester)の一部にあたる)とリヴァプールのエッジ・ヒル駅間で営業を開始した。

しかし開業式典当日にリヴァプール選出の議員であるウィリアム・ハスキソンが列車に轢かれて死亡するという最悪の事態に見舞われた。列車がニュートン・ル・ウィローズ(Newton-le-Willows)そばのパークサイドで一時停車した際、客車から下車し当時の首相であった初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーに客車の窓から挨拶しようとした矢先の事故であった。線路上に立っていたハスキソンは、対向の線路を接近してくるロケット号の速度を見誤った結果轢かれてしまい、世界初の鉄道人身障害事故を発生させてしまった。なおハスキソンは即死したわけではなく、首相の乗っていた列車から切り離されたノーザンブリアン号(Northumbrian)によってエックルス(Eccles)へと救急搬送されたが、そこの牧師館で亡くなった。事故による暗い雰囲気の中一行はマンチェスターへと進んだが、現地は労働者階級による首相への反発が根強い地域であり、煉瓦を投げつけられるといった騒ぎの中リヴァプールへと戻った。

このように幸先の悪い開業日であったが、その後の経営は極めて好調であった。開業後数週間にして最初の臨時列車が運行され、世界で最初の鉄道郵便の営業が行われ、ピックフォーズ社(Pickfords、イギリスの引っ越し会社)向けの貨物コンテナを搭載していた。1831年の夏までに、ニュートン・レースへ向かう何万もの列車が運行されるようになった。

鉄道免許の法案では、他人が使用料を払って鉄道線路を使用することを認めていたが、会社は最初から列車を自社で所有して自社で運行することを決めていた。当初から貨物営業を想定して建設された線であったが、実際の開始は12月プラネット号を始めとした大出力機関車の就役を待つこととなった。また競合する運河各社では運賃の値下げが進み、鉄道の開業によって運河運賃の異常な高さが露呈する結果となった。想定外だったことは鉄道が旅客営業でも成功したということであった。レインヒル・トライアルによりかつて無い高速輸送が可能であることが分かり、加えて当時の自動車よりも安く快適な乗り物となった。このため、会社は当初旅客輸送に集中する決断をし、以後の鉄道営業に大きな影響を与えて鉄道狂時代の始まりとなった。

当初、速度は線路の問題で17マイル毎時(27km/h)に制限の上運行された。しかし実際には更に加速することが可能であったため機関士は制限を越えて運転していた。そして速度超過が発覚し処分を受けることもあった。初期の線路には枕木がなく石の上に設置されていたため、速度を上げすぎるとレールを押し広げる可能性があったためである。1837年に当初の魚腹形レールから1ヤード当たり50ポンド(23kg/m)の双頭レールへの交換が始められ、枕木が導入された[3]

ライム・ストリートからエッジ・ヒルまでのトンネル1836年に完成し、開業後は客車はエッジ・ヒルで機関車から切り離された後重力リヴァプール・ライム・ストリート駅まで、制動手によりブレーキを掛けられながら降りていき、また据え置き式の蒸気機関によりケーブル牽引で引き上げられていた。トンネルの長さは1,980ヤード(1,811m)であった。

1842年7月30日には、オーズオール・レーン(Ordsall Lane)からマンチェスター・ヴィクトリア駅までの延長工事が始まり、1844年5月4日に開業して、以後リヴァプール・ロード駅は1世紀以上に渡って貨物輸送専用に用いられた。プラネット号のレプリカ
影響

初期の鉄道の1つとして数多くの教訓を生んだが、それでも多数の旅客が死亡するような事故は起きなかった。リバプール・アンド・マンチェスター鉄道では、赤信号を停止、緑信号を注意、白信号を進行とするルールを定めて、1840年代にイギリスとアメリカの鉄道で広まった。この色は後に赤、黄、緑に変わっている。また日本でも標準軌として知られる4フィート8.5インチ(1,435mm)軌間が広く使われるきっかけにもなった。

1845年にリバプール・アンド・マンチェスター鉄道は、その主要な協力会社であったグランド・ジャンクション鉄道(GJR: Grand Junction Railway)に吸収され、さらに後にグランド・ジャンクション鉄道はロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道(LNWR: London and North Western Railway)の一部となった。
現在の路線

リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の建設した当初の路線は、今でも両都市を結ぶ路線として使用されている。ただし現在では輸送量の点で2番目の経路であり、南側の、かつてチェシャー鉄道委員会(Cheshire Lines Committee)の路線であったウォリントン・セントラル駅(Warrington Central railway station)経由の路線がもっともよく利用されている。この路線では、ノーザン・レール(Northern Rail)が1時間に1本の速達便をウェイバーツリー・テクノロジー・パーク駅(Wavertree Technology Park railway station)、アールズタウン駅(Earlestown railway station)、ニュートン=ル=ウィローズ駅(Newton-le-Willows railway station)、マンチェスター・オックスフォード・ロード駅(Manchester Oxford Road railway station)に停車し、さらにマンチェスター・ピカデリー駅からマンチェスター空港駅(Manchester Airport railway station)へ直通させる形で運行している。ノーザン・レールはさらにリヴァプール・ライム・ストリート駅からマンチェスター・ヴィクトリア駅まで全ての駅に停車する各停列車を1時間に1本運行している。リヴァプールからアールズタウンを経由してウォリントン・バンク・キー駅(Warrington Bank Quay railway station)へと運行する各駅停車もある。また、このほかトランスペナイン・エクスプレスがこのルートを通ってリバプールとニューカッスルを結ぶ列車を1時間に1本、802/2形Nova 1にて運転している。
リヴァプール・ロード駅

ライム・ストリート駅 — エッジ・ヒルとの間のトンネルの建設工事は1832年5月23日に始まり1836年8月15日に開業した。

クラウン・ストリート駅(Crown Street) — 当初のリヴァプール側のターミナルで、ライム・ストリートに置き換えられた。

エッジ・ヒル駅(Edge Hill) — 当初はワッピング埠頭と1829年に完成したワッピングトンネルで結ばれていた。


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