1944年、ソ連軍が再び侵攻し、その後はリトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連に編入された。1944年から1952年にかけて、約10万人のパルチザンがソビエト当局と戦った(「森の兄弟たち」)。約3万人のパルチザン兵士およびその支援者は殺され、そのほかにも多くが逮捕され、シベリアのグラグへと強制追放された。第二次世界大戦中、あわせて78万人の住民がリトアニアで殺された[34]。
独立回復へ[ソースを編集]
1986年以降、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ政権によるペレストロイカやグラスノスチを機に、国民運動サユディスが設立され、その後独立運動へと発展していった。1990年のリトアニア・ソビエト社会主義共和国最高会議選挙でサユディスは大勝利し、その後の1990年3月11日、初の非共産党員の最高会議議長ヴィータウタス・ランズベルギスが独立回復を宣言。これはソビエト連邦構成共和国の中で最も早いものであった。国内に他民族(主にロシア人)が少なかったことが、国内意見の集約を容易にさせた側面があるとされる。リトアニアの一方的な独立回復宣言を受け、ソ連政府は経済封鎖を実施。さらに1991年1月13日、KGB特殊部隊のアルファ部隊がヴィリニュスのテレビ塔を攻撃、13人の市民が殺された(血の日曜日事件)[35]。
世界の複数の国は、ソ連によるリトアニア併合を国際法的に否認したままであった(バルト諸国占領#歴史的考慮を参照)。リトアニアによる独立回復宣言を受けて、1991年2月4日、アイスランドが世界に先駆けてリトアニアの独立を承認。その後、8月にソ連の首都モスクワでのクーデターが企てられ失敗に終わると、9月6日、ソ連もリトアニアの独立を承認した。これによりリトアニアの独立は多くの国によって承認されるようになり、また9月17日にはエストニア、ラトビアとともに国際連合に加盟した。なお、独立回復後は、エストニアやラトビアとは異なり、残留ロシア人に対しほぼ無条件でリトアニア国籍を与えている。
1991年12月25日のソビエト連邦の崩壊後、ソ連軍の主力はロシア連邦軍に継承されたが、1993年8月31日、ロシア連邦軍は全てリトアニアから撤退した。その後のリトアニアは西欧諸国やアメリカ合衆国との結びつきを強めており、1994年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟申請した。計画経済から自由経済へ移行したあと、2004年3月29日にNATOへ加盟。さらに同年5月1日には欧州連合(EU)への加盟を果たした。
2009年5月17日、大統領選が行われ、EUの財政計画・予算担当欧州委員を務めるダレ・グリーバウスカイテ元財務相が圧勝し、リトアニア初の女性大統領に選出された。グリーバウスカイテは2014年の大統領選で再選を果たした。
2015年にそれまでの通貨リタスに代わり、ユーロが導入された。
2018年7月5日、経済協力開発機構(OECD)に加盟した[36]。
政治[ソースを編集]ギタナス・ナウセダ大統領詳細は「リトアニアの政治(英語版)」を参照
1990年3月11日の独立回復宣言以来、リトアニアは共和制国家として民主主義の伝統を維持してきた。1992年10月25日には独立回復後初めて議会選挙が行われたが、同日行われた国民投票では、投票者の56.75%がリトアニア共和国憲法の制定を支持している[37]。憲法に関しては、とりわけ大統領の権限について激しく議論がなされ、1992年5月23日に行われた大統領制に関する国民投票では有権者の41%が大統領職の復活を支持していた[37]。結果、半大統領制が導入されるに至った[38]。「リトアニアの大統領」および「リトアニアの首相」も参照
行政[ソースを編集]