1655年から1661年の北方戦争において、リトアニアの領土や経済はスウェーデン軍によって破壊された。復興前に大北方戦争(1700年 - 1721年)が勃発し、リトアニアは再び荒廃した。戦争、疫病、飢餓によって人口の約4割を失うこととなった[28]。周辺諸国、とりわけロシアのリトアニア国内における影響力は増大していった。リトアニア貴族の諸派閥が拒否権を発動し続けたことにより、改革は全て妨げられた。結局、ロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア大公国(ハプスブルク君主国)の3か国によって1772年に第1次ポーランド・リトアニア分割が行われ、その後1792年に第2次、1795年に第3次分割が行われた。これによりポーランド・リトアニア共和国は解体された。
現在のリトアニアの領土の大半は、この分割によりロシア帝国領となった。1831年の11月蜂起、1863年の1月蜂起はいずれも失敗に終わり、ツァーリはその後ロシア化政策を強化、リトアニア語による出版物の発行が禁じられ、文化施設や教育機関が閉鎖を余儀なくされた。リトアニア地域はロシア帝国内では北西地方(クライ)と呼ばれる地方に属することとなった。
1877年の露土戦争の後、ロシア帝国とドイツ帝国の関係が悪化するのに伴い、1879年7月7日、ロシア皇帝アレクサンドル2世は、ドイツとの戦いに備えるためにカウナス郊外に要塞を建設することを承認した。
この時代、1868年から1914年までの間に、約63万5,000人、人口のおよそ20%がリトアニアを離れた。その多くは、1867年から1868年に起きた飢饉をきっかけにアメリカ合衆国へと移住した[29]。
リトアニア共和国として独立[ソースを編集]リトアニア独立宣言(1918年2月16日)に署名したリトアニア評議会(タリーバ)のメンバー20名
第一次世界大戦が起きると、リトアニアは東部戦線の戦場となった。1918年2月16日、ロシア革命の余波が及ぶ中でリトアニア評議会(英語版)(タリーバ)はリトアニアの独立を宣言した(リトアニア独立宣言)。当初はリトアニア王国として独立したが、これはドイツ帝国の計画したミッテル・オイローパ構想(汎ヨーロッパ主義)の一環であった。その後、1918年11月11日に第一次世界大戦でドイツ帝国が敗北して崩壊すると、リトアニア第一共和国となった。
その後のリトアニアは、ポーランドおよびドイツとの領土問題を抱えることとなる。1920年、ジェリコフスキ将軍率いるポーランド軍はヴィリニュス地域を侵攻、その後この地域にはリトアニア共和国とは別に中部リトアニア共和国が建国された。中部リトアニア共和国は後にポーランドに編入されたが、リトアニアにとってヴィリニュスは歴史的首都で、憲法でも首都として制定されていたため、その後ポーランドとの間で領土問題を抱え続けることとなった。この結果、戦間期にはカウナスが臨時首都とされ、ポーランド第二共和国とは1938年に至るまで国交が樹立されないままであった。この戦間期におけるリトアニア共和国の領土面積は4万8,712km2であった。第1次世界大戦後のリトアニアの領土
また、ドイツ(ヴァイマル共和政およびナチス・ドイツ)とはクライペダ(メーメル)地方をめぐる領土問題を抱えていた。第一次世界大戦後、クライペダ地方は国際管理地域とされていたが、1923年にリトアニア軍が侵攻し、占領した。しかしその後、1939年3月にこの地方はナチス・ドイツに併合されている。
リトアニア共和国はカウナスが臨時首都とされて以降は議会制民主主義体制がとられていた。1926年の軍事クーデタによりアンタナス・スメトナを大統領とする権威主義体制に移行した。
第二次世界大戦[ソースを編集]