14世紀末までにリトアニア大公国は現在のベラルーシ全域、ウクライナ全域、ポーランドの一部、ロシアの一部を領土とする、ヨーロッパ最大の国家となった[24]。東西の狭間に位置していたリトアニア大公国では、様々な文化や宗教が入り混ざっていた。リトアニアの支配者らはスラヴ文化・宗教に対して寛容で、また言語など多くの伝統をスラヴ部族から受け入れていった。政治的実体もハールィチ・ヴォルィーニ大公国のヴォルィーニ公国にあるほどであった。ヴィータウタス大公。彼のもとでリトアニア大公国は最大版図を達成した(17世紀に描かれた絵画)。
1385年、リトアニア大公ヨガイラはポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、ポーランド王を兼ねるようになった。これを機にヨガイラはキリスト教を受容。そしてポーランド王国との間にクレヴォ合同が結ばれ、ポーランド・リトアニア合同が形成される。その後、2度の内戦を経て、1392年にヴィータウタスがリトアニア大公となる。彼の治世のもとでリトアニア大公国は最大版図を達成し、中央集権化も進められた。この当時、リトアニア大公国における公用語はリトアニア語ではなく、現在のベラルーシ語の原型であるルテニア語であった。またリトアニア人の大公家を戴いていたものの、その政治的実態はリトアニア(リトゥアニア)人国家ではなく東スラヴ諸部族によるスラヴ人国家であった。
1410年、ポーランドとの協力によりドイツ騎士団との戦いに勝利を収めた。この戦いは中世ヨーロッパで最も大きな戦いの一つであり、リトアニアでは「ジャルギリスの戦い」として知られる[25][26]。
このとき、リトアニア大公国軍は40部隊からなっていた。そのうち原リトアニアから来たリトアニア人部隊はたったの4つで、28部隊は現在のベラルーシから、8部隊がウクライナから参加していたスラヴ人部隊であった。このことからも、リトアニア大公国の実態がスラヴ人、特に東スラヴ人が主導的な国家であったことがうかがい知れる(一方で当時のポーランドは西スラヴ人の国家であった)。
ヨガイラとヴィータウタスの死後、リトアニアの貴族はポーランドとの合同を解消し、独自にリトアニア大公を選出しようとした。しかし15世紀末にモスクワ大公国が力をつけてリトアニアにとって脅威となり、さらにモスクワ・リトアニア戦争(英語版)およびリヴォニア戦争が起きる中で、リトアニアはポーランドとの関係を強化せざるを得なかった。
こうして1569年、ポーランド王国との間にルブリン合同が成立し、ポーランド・リトアニア共和国(ジェチポスポリタ)が誕生した。共和国内にあってもリトアニアは独自に軍隊や通貨、法令などを有していた[27]。しかし最終的にはリトアニアの政治、言語、文化など、すべての面においてポーランド化が進んだ。16世紀半ばから17世紀半ばにおいては、ルネサンスおよび宗教改革の影響から文化、芸術、教育が栄えた。