リトアニアの国旗
[Wikipedia|▼Menu]
ヨーロッパの諸共和国における国旗変更に影響を受け、リトアニアでも黄・緑・赤の三色旗が誕生した。三色旗という案はフランス革命後に採用された青・白・赤のトリコロールの影響で生まれた。リトアニアでそれ以前から存在していた三色旗は、小リトアニア地方の緑・白・赤の三色旗のみである[1]

黄・緑・赤の三色旗を最初に提案したのが誰であるかは知られていないが、この案は19世紀ヨーロッパアメリカといった海外へ移住したリトアニア人によるものと考えられている。この三色は民俗的な織物や衣装によく用いられる色であった[2]1905年のヴィリニュス大会議(リトアニア語版)において、この三色旗はリトアニア国民の旗としてヴィーティスの旗以上に支持を受けた。ヨナス・バサナヴィチュス(リトアニア語版)が強く支持したヴィーティスの旗は3つの理由から選ばれるにはいたらなかった。まず、大会議ではベラルーシウクライナなども領土に含んだリトアニア大公国の旗からは距離を置くことが望まれたことが理由としてあげられる。次に、マルクス主義者や共産主義者の主義主張に連合する革命家らが赤色を支持していた。そして最後に、ヴィーティスの旗は複雑で縫い合わせるのが容易ではなかったことが理由であった[3]
リトアニアの独立と国旗

?中部リトアニア共和国の国旗

?1918年 - 1940年の国旗、(縦横比6:9)

?1927年 - 1940年の軍艦旗、(縦横比8:16)

?1927年 - 1940年の軍艦用国籍旗

国旗に関する議論は1917年のヴィリニュス会議で再び起こった。緑と赤の2色が民族の色として浸透していたことから選ばれた。芸術家のアンタナス・ジュムイジナヴィチュス(リトアニア語版)は会議場を赤と緑の小さな旗で飾った。しかし代議員らはこの2色が暗く陰気なものだとしてあまりこのデザインを好まなかった[3]。その後タダス・ダウギルダス(リトアニア語版)が朝日を象徴する黄色の細い帯を赤(朝日に照らされた雲)と緑(大地と森林)のあいだに付け加えることを提案した。しかし代議員らはバサナヴィチュス、ジュムイジナヴィチュス、ダウギルダスの3者による特別委員会によって問題解決するよう決定した。1918年4月19日、特別委員会はリトアニア評議会(タリーバ)に議定書を提出、上が黄、中が緑、下が赤の三色旗で左上にヴィーティスを描くこととされた[3]。評議会はこの提案を受諾したが、1922年のリトアニア共和国憲法では国章に関する条文が制定されなかった。こうして現在用いられている国旗が採用された。

国旗に関する議論はその後も続いた。黄・緑・赤の組み合わせはそれまでの紋章を継承するものではなくふさわしくないとして制定された国旗に反対意見もあったが、戦間期には国旗が変更されることはなかった。
ソビエト時代の国旗詳細は「リトアニア・ソビエト社会主義共和国の国旗」を参照

?リトアニア・ソビエト社会主義共和国の国旗1940年 - 1953年

?リトアニア・ソビエト社会主義共和国の国旗(1953年 - 1988年

?リトアニア・ソビエト社会主義共和国の国旗(1953年?1988年)、裏面

リトアニア・ソビエト社会主義共和国の国旗(1988年?1990年)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:64 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef