かつてはタバコの集散地として栄え、現在はタバコ、化学、薬品などの産業が中心で、タバコや食品業界で有名なフィリップモリスUSAの本社[8]が置かれているほか、様々な業種の企業が本社を置いている。
また、1995年から産業創出と経済再生などを目指したバージニアバイオテクノロジーリサーチパークが設けられてから、多数の企業や政府、非営利団体が研究機関を置くようになるなど、全米有数のバイオテクノロジー研究最先端基地としての成長が著しい。2007年には地元経済を牽引してきたフィリップモリス社も350万ドルを投じ、同リサーチパークに研究施設を設けている。2010年現在、現在約3000人に上る研究者や技術者、学者が同リサーチパークで雇用されている。
バージニア美術館やバージニア科学美術館、バージニア・コモンウェルス大学、リッチモンド大学、バージニア・オペラ団、リッチモンド交響楽団、リッチモンド・バレエ団などがこの街に所在する。
また、13の合衆国控訴裁判所の一つ、第4巡回区の合衆国控訴裁判所および12の連邦準備銀行の一つ、リッチモンド連邦準備銀行がこの街に置かれている。
海外からの玄関口として、近郊にリッチモンド国際空港がある。
州都として栄える一方で、全米有数の犯罪都市としても知られていたが、治安は大きく改善され、20万人を割り込んでいた市域人口は20万人以上に回復し、人口増を続けている。 現在のリッチモンドの場所は、ヨーロッパ人の到来以前はポウハタン族の重要な集落であった。最初のヨーロッパ人によるこの地への定住は、近郊のジェームズタウンよりやってきたイングランド人によって1609年から始まったが、当初は定住に成功しなかった。1737年に、ウィリアム・バード2世
歴史
アメリカ独立戦争中の1775年、パトリック・ヘンリーによる「自由を与えよ。然らずんば死を (Give me Liberty, or give me Death!)」の演説はこの街のセント・ジョーンズ聖公会堂で行われた。1781年にはイギリス軍によって街は焼き払われたが、すぐさま復興された。1786年には、リッチモンドの臨時議事堂でトマス・ジェファーソンが草稿したバージニア信教自由法が採択された。
水路が発達した交通の利点から、19世紀前半はタバコの集散地や鉄工や製粉などの工業地として栄えた。南北戦争時代には、1861年2月8日にアメリカ連合国(CSA)が建国されると、モンゴメリーがその首都となったが、同年5月23日にバージニアがCSAに加盟したことで、5月30日にCSAの首都はリッチモンドに移された。これは、アメリカ合衆国(USA)の首都ワシントンDCとすぐ近いことなど、戦略上重要な都市であったためである。USA軍がリッチモンド攻略を狙った半島方面作戦における七日間の戦いでは、CSA軍がリッチモンドに攻め入るUSA軍を撃退した。