リチャード2世_(イングランド王)
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黒太子には4人の弟がいたが、クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープは若死、残った3人の弟ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントケンブリッジ伯(後にヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーエセックス伯(後にグロスター公トマス・オブ・ウッドストックが摂政候補に挙げられたが[注釈 1]、誰も決まらず貴族たちによる集団指導体制でリチャード2世を補佐することに決定、評議会がその役目を担ったが、筆頭に選ばれたランカスター公の発言権が強かった。リチャード2世の治世はこの3人の叔父たちの動向に大きく左右されていくことになる[4]王と交渉中に斬殺されるワット・タイラー(15世紀の作品)

1378年1380年に新政権は百年戦争フランスに奪われた占領地域の奪還を図り大陸へ遠征したが、全く成果が上がらなかった。この遠征による膨大な戦費調達のため人頭税の導入を図るが、これは上層に軽く下層に重い税制であった。1381年6月、増税に反対する下層階級の農民と労働者が、エセックスの煉瓦工ワット・タイラーに率いられて反乱を起こすと、ランカスター公の屋敷が焼き払われ、政府の幹部だった財務府長官ロバート・ヘイルズと尚書部長官サイモン・サドベリーの2名が殺害され、反乱軍がロンドンへ迫る展開になったが、リチャード2世はタイラーとの面会に応じた。6月14日にリチャード2世はタイラーの要求事項に回答を約束したが、翌15日ロンドン市長が面会に現れたタイラーを刺殺し、指導者を失った反乱は鎮圧された(ワット・タイラーの乱[注釈 2]。自ら危機を乗り切ったリチャード2世は自信をつけて親政を手掛けたが、それは貴族の反感を買うことになっていく[6]
専制政治とその挫折

1383年に親政を開始したリチャード2世は、側近のマイケル・ド・ラ・ポールオックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアーらを重用、ド・ラ・ポールをサフォーク伯に(1385年)、オックスフォード伯をアイルランド公に叙爵した(1386年)。またランカスター公に対抗するため、この時点で後継男子を得ていなかったリチャード2世は、クラレンス公の外孫である従甥のマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名する。さらに2人の叔父にも爵位を与え、1385年にケンブリッジ伯をヨーク公、エセックス伯をグロスター公にそれぞれ叙爵した。

しかし外交は失敗が重なり、フランドルの都市ヘントで反乱を起こしたフィリップ・ヴァン・アルテベルデ(英語版)はイングランドの支援を求めたが、1382年ローゼベーケの戦いでフランス軍に討ち取られ、出遅れる形で翌1383年に出兵したイングランド軍も成果が無いまま撤退、金の無駄遣いに終わった。のみならず、スコットランドとフランスが手を組みイングランドへ逆侵攻する恐れが生じたため、1385年にリチャード2世はスコットランドへ遠征したが、敵側が焦土作戦を取ったためこの遠征も戦果を挙げられず、引き上げざるを得なかった。外交の失敗に加え、リチャード2世が寵臣たちに気前よく爵位や土地、財産などをばらまき、彼らを中心とした専制政治で議会や貴族を無視する態度を取ったため不満が高まっていった。ラドコット・ブリッジの戦いで敗走するアイルランド公ロバート・ド・ヴィアー(15世紀の作品)ランカスター公にアキテーヌ公位を与えるリチャード2世(15世紀の作品)

ランカスター公は両者の調停に尽力していたが、1386年7月に妻コンスタンスの王位継承権を盾にカスティーリャへ遠征すると、貴族たちが国王批判を展開した[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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