リチャード・モントゴメリー
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7月26日、一連の戦闘でフランス海軍の艦隊の大半が破壊されることになり、砦のフランス軍は降伏した[11]。アマースト将軍は包囲戦の間のモントゴメリーの行動に感心し、中尉に昇進させた[11]

1758年7月8日、ジェームズ・アバークロンビーがシャンプレーン湖沿いのカリヨン砦を攻撃したが、大きな損失を出して撃退された[12]。8月、モントゴメリーと第17歩兵連隊はボストンに回航され、オールバニでアバークロンビーの部隊と合流し、その後ジョージ湖に進軍した[13]。11月9日、アバークロンビーが解任され、アマーストが総司令官に就任した[12]。イギリス軍上層部は1759年の作戦のためにカナダへの3方面からの攻撃作戦を立案した。第17歩兵連隊を含む部隊はカリヨン砦を攻撃し、クラウンポイントに近いセントフレデリック砦も攻略することとされた。アマースト将軍の指揮下でモントゴメリーと第17歩兵連隊はカリヨン砦攻略戦に参戦した[12]。この戦闘の前に軍隊が集結している間に、モントゴメリーの中隊は警備任務についた。モントゴメリーは兵士達にフランス兵やインディアンの急襲隊に備えるよう命令した。5月9日、第17歩兵連隊の12名の兵士が攻撃されたときにモントゴメリーの危惧が正しかったことが証明された[14]。モントゴメリーと第17歩兵連隊は当初堅い抵抗に遭った[14]。モントゴメリーは兵士達に同士討ちを避けさせるために夜には銃撃しないよう命令した。7月21日、全軍が砦の攻略を開始した。26日までに砦の外壁に取り付いたが、フランス軍はその勢力の大半をセントフレデリック砦に移していた。昼の間に砲撃戦が交わされたその夜、フランス軍はカリヨン砦の火薬庫を爆発させ、さらに翌日にはセントフレデリック砦も同様にし、シャンプレーン湖の北端まで後退した[14]

1759年遅くにロバート・モンクトン少将の指揮下に入った第17歩兵連隊は、その冬をモホーク川渓谷の守備任務で過ごした[15]。1760年5月15日、モンクトンはモントゴメリーを連隊の副官に指名した。この地位は指揮官が連隊における最も将来を嘱望される中尉に与えるものだった[16]。8月、第17歩兵連隊はシャンプレーン湖師団に合流し、クラウンポイントを出発してモントリオール市への3方向からの攻撃に参加した[17]。第17歩兵連隊はイル・オ・ノワとシャンブリー砦を攻略した後、モントリオール郊外にいた他の2個師団と合流した。フランスのカナダ総督ボードレール侯爵はモントリオール市を守ることはできないと見て、戦わずして降伏した[18]。モントリオール市が陥落したことで、カナダの全てがイギリス軍の手に落ちた[17]。1761年夏、モントゴメリーと第17歩兵連隊はモントリオールからスタテン島まで凱旋した[17]
カリブ海

イギリス政府はカナダを征服した後、カリブ海でフランス軍を破る作戦を立てた[17]。1761年11月、モントゴメリーと第17歩兵連隊はバルバドスに移動し、北アメリカから来た他の部隊と合流した。1762年1月5日、部隊はバルバドスを出発してフランス領のマルティニーク島に向かい、1月半ばには到着した。フランス軍は攻撃が迫っているという報に接しており、その防御工作を造り上げていた[17]。上陸拠点がすばやく構築され主力の攻勢が1月24日に始められた。フランス軍の外郭防御が攻略され、残った部隊は首都のロワイヤル砦に逃げ込んだ。イギリス軍は砦への攻撃準備を始めたが、フランス軍は状況が絶望的であることを察知して降伏した[19]。2月12日、全島が降伏した[19]。マルティニーク島が陥落した後、フランス領西インド諸島グレナダセントルシアおよびセントビンセント島が戦闘無しにイギリスの手に落ちた[19]。1762年5月6日、マルティニーク島での功績に対する褒賞としてジョン・キャンベル中佐がモントゴメリーを大尉に昇進させ、第17歩兵連隊に所属する10個中隊の1つの指揮官職を与えた[20]

1761年にスペインがフランスの同盟国として参戦した[19]。イギリス軍上層部はハバナを占領すればスペイン本国とその植民地帝国の通信線を破壊できると考えた[21]。1762年6月6日、イギリス軍の襲撃部隊がハバナ海岸から7マイル (11 km) 沖に到着した。モントゴメリーの中隊を含む第17歩兵連隊は、スペインがハバナを防衛するための重要拠点であるモロ砦を攻略するものとされていた[21]。イギリス海軍の戦闘艦が砦を砲撃し、スペイン軍の大砲のうち2門を除いて沈黙させた。7月30日、モントゴメリーと第17歩兵連隊が砦を急襲して占領した[21]。8月下旬、モントゴメリーと第17歩兵連隊はニューヨークに送られ、戦争の残り期間はそこに留まっていた。七年戦争は1763年2月10日に調印されたパリ条約で終結した[22]
ポンティアック戦争詳細は「ポンティアック戦争」を参照

1763年4月、オタワ族インディアンの酋長ポンティアックは、フランスが降伏したことに怒り、さらに彼らに及ぼしたイギリス軍の政策に不満を抱いて、インディアンの18部族を組織化し反乱を起こした[23]。これら部族はイギリス軍の砦8か所を占領し、他に2か所を明け渡させた。1763年6月、アマースト将軍は第17歩兵連隊にオールバニに向かい、反乱鎮圧を支援するよう命令した[24]

モントゴメリーの部隊を運ぶ船がハドソン川を遡ってオールバニ向かう途中、政界の有力者リビングストン家の拠点であるクラーモント荘園の近くで船が座礁した。船を離礁させる間、リビングストン家は船に乗っていた士官達を歓待した。このときモントゴメリーはロバート・リビングストンの娘で20歳になるジャネットに紹介された。このとき二人の間に何が起こったか正確には分かっていないが、ジャネットは連隊がニューヨークに戻るときに若いモントゴメリーが連隊と同道していないことには気付いていた[25]。モントゴメリーはそれより以前にイングランドに戻ることを認められていた。

第17歩兵連隊は最初にスタンウィックス砦の守備隊任務に就き、モントゴメリーはそこに1764年まで留まっていた。1764年、モントゴメリーはカリブ海での従軍がその健康を侵していたので、キャンベル大佐とトマス・ゲイジ将軍にイングランドに戻してもらうことを願い出た。ゲイジは帰国を認め、キャンベル大佐にできるだけ早くそうさせるよう指示した。キャンベルはカリブ海への遠征で部下の士官が激減していたので、次の遠征後にのみ帰国することを認めた[26]

1764年、イギリス軍はインディアンの蜂起に対して2つの遠征隊を組織した[24]。モントゴメリーと第17歩兵連隊はジョン・ブラッドストリートが指揮する遠征隊の1つに付けられ、7月にナイアガラ砦に行って1ヶ月間そこで駐屯した。


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