リチャード・ニクソン
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夫が左翼シンパとして有名であったが自らは「リベラル派」との評価を受けていたダグラス[10] に対してニクソンは「共産主義者」のレッテルを貼った。そのことが多くの左派リベラル派のジャーナリストの反感を呼び、後の副大統領候補として立った際に執拗な攻撃を受ける要因となった。彼にとってはリベラル派も共産主義であり、対立候補をことごとく「共産主義者」のレッテルを貼って攻撃する戦略をとったため、民主党は「トリッキー・ディック」と呼んで反駁した[11]
1952年アメリカ合衆国大統領選挙

しかし、これらの活動が共和党内の保守派を中心に高い評価を受け、1952年アメリカ合衆国大統領選挙において、わずか39歳でドワイト・D・アイゼンハワーの副大統領候補に指名された。この年の大統領選挙での顕著な出来事の1つは、当時一般家庭に普及が進んでいたテレビが大統領選挙に大きな影響力を持っていることが明らかになったことである。その最初の例がニクソンが行ったテレビ演説であった。
「チェッカーズ・スピーチ」「チェッカーズ・スピーチ」を行うニクソン詳細は「en:Checkers speech」を参照

副大統領候補に指名される前からニクソンは、彼に金銭的余裕がないことを知った地元の有志たちが作った支援基金団体から政治活動資金の援助を受けていた。民主党大統領候補のアドレー・スティーブンソンも同様の資金援助を受けていたにもかかわらず、共和党に批判的であったタブロイド大衆紙ニューヨーク・ポスト紙は、共和党全国大会で副大統領候補に指名されて大統領選挙の本選に入った1952年9月18日に、このニクソンの資金援助の事のみを「ニクソンの秘密信託基金」と批判し[12]、さらに「2万ドルを受け取った」、「物品の提供も受けた」と伝えた。さらに元々共和党支持の「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙までがその社説で「ニクソンは辞表を提出すべきである」と主張した[13]

その後アイゼンハワーの選対本部はこの記事が大統領選挙に与える影響を憂慮し、選対本部の一部はニクソンを副大統領候補から降ろすことや、議員辞職をさせることまでを画策しはじめた[14][注釈 1]

これに対してニクソンは、「候補を降りることや議員を辞職すれば、これらの疑惑を認めてしまうことになる」と言って候補から下りることを拒否し、テレビで自ら潔白であることを訴える演説を行うこととした。1952年9月23日夜にその模様は全米にテレビ中継された。この演説の冒頭にニクソンは「今夜私は皆さんの前に、米国の副大統領候補として、またその正直さと誠実さを問われている1人の人間として立っています」と述べて、ニクソン家のありとあらゆる私財リストをさらけ出した[16]。「カリフォルニアの両親が住んでいた家が3千ドルで借金1万ドル、ワシントンの自宅が2万ドルでそのまま借金2万ドル、生命保険が4千ドルで借金5百ドル、株と社債はゼロ、ワシントンの銀行からの借金が4千5百ドル、両親から借りた金が3千5百ドル……」自分の個人資産の詳細を事細かく説明して、いかに質素な生活をしているかを訴えた。

逆にトルーマン政権の閣僚の妻達の中には「院外活動をする人々から高価な毛皮コートを受け取った」と告発されている者がいた事を受け、横に座る妻のパットが「ミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」と言ってトルーマン政権の閣僚を皮肉るとともに、「以上が私たちの財産と負債の全てです。問題の1万8千ドルは私たちのためには使っていません」として支援基金団体から提供された資金を私的に使用したことを明確に否定した[17]。またパトリシアに対して常に「綺麗だよ」と言っていることも話し、愛妻家ぶりもアピールした。

そして「物品の提供を受けたことはない。しかし例外がある。娘2人がを飼いたいと言っていたことを耳にしたテキサス州の支援者からコッカースパニエルを貰った。けれど6歳の長女トリシアが『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはありません」と述べ、さらに「自分が副大統領候補を辞退するべきか否かについての意見を、共和党全国委員会に伝えてほしい」と訴えた[18]

この放送は、その後「チェッカーズ・スピーチ(英語版)」と呼ばれるほどの大きな反響を視聴者に与えるとともに、「提供された資金を私的に流用した」という批判を払拭し、いわれのない攻撃を受けるニクソンに対する同情と支持を集めることに成功した。さらに、ニクソンを引き続き副大統領候補として留めることを要求する視聴者からの連絡が共和党全国委員会に殺到したことで、副大統領候補の辞退さえ迫られていたニクソンは、引き続き副大統領候補として留まることになった。

しかし、家族だけでなく愛犬までを持ち出したスピーチに対して、一部の左翼的ジャーナリストから「愚衆政治的」との批判を受けることとなった[19]。しかし最初テレビによって救われたニクソンだが、その後はテレビに躓き、最後までテレビに苦しむ政治家となった。
第36代アメリカ合衆国副大統領アイゼンハワーと大統領就任式典に臨むニクソンインドネシアの大統領スカルノとともに

このような逆風にあったものの、その後アイゼンハワーとニクソンのコンビは大統領選挙の本選挙で一般投票の55 %、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となった。

副大統領に就任したニクソンは初の外国への公式訪問として、アメリカに隣接し関係の深いキューバベネズエラをはじめとする南アメリカ諸国を訪問した。ベネズエラの首都のカラカスを訪問した際に反米デモが起こり、暴徒化して地元の警察でさえコントロールできなくなった状況でニクソンのデモ隊に対する沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。

またその後もアフリカ諸国への訪問(アメリカの副大統領として史上初のアフリカ大陸への訪問であった)をはじめとする、諸外国への外遊を積極的に行った。同年の10月5日から12月14日にかけて[20]日本中華民国韓国などの北東アジアからフィリピンインドネシアラオスカンボジアなどの東南アジア、インドパキスタンイランなどの西アジア、オーストラリアニュージーランドなどのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊を行った。この時に11月15日に戦後初の国賓として来日し、日米協会の歓迎会の席で「アメリカが日本の新憲法に非武装化を盛り込んだのは誤りであった」と述べている[21]

また、これより前に1954年4月16日の全米新聞編集者協会の年次大会で「万一インドシナが共産主義者の手に落ちれば全アジアが失われる。アメリカは赤色中国(レッドチャイナ)や朝鮮の教訓を忘れてはならない」と述べた。当時の有力政治週刊誌はチャイナ・ロビー活動に熱心な政治家の一人としてニクソンをあげて、1950年の上院議員選挙の際に中華民国総統?介石から資金の援助があったという噂を書いている[22]

1954年にディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗北した際には「フランスが撤退すればアメリカが肩代わりをする」としてインドシナ出兵論を唱えた。同じ年に中華人民共和国が中華民国の金門・馬祖両島に爆撃をした時は、中国人民解放軍への軍事的対抗を主張した。なおベトナムからのアメリカ軍撤退と中華人民共和国訪問を自ら実現するのはこれからほぼ20年後のことである。そしてこの当時中華人民共和国と結びつこうとしたインドを牽制して、対立するパキスタンに軍事援助を与えた。

インドを訪問した時にネール首相と会談したが、ネールはニクソンを「原則のない若者」として侮蔑の言葉で呼び捨てた[22]。下院議員時代に「赤狩りニクソン」のニックネームで呼ばれ、副大統領になってもその反共主義は変わらなかった。そしてやがて東西対立がまだ厳しい中でソ連を公式訪問してフルシチョフ首相とやりあうこととなった。
「台所論争」ソ連の首相フルシチョフと「台所論争」を行うニクソン詳細は「台所論争」を参照

1959年7月24日には「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦の首都であるモスクワを初めて公式訪問した。これは当時のフルシチョフ政権下におけるいわゆる「雪どけ」にともなう緊張緩和(一時的なものではあったが)などが背景にある。このニクソンのソ連訪問の折にフルシチョフをアメリカに招待し、そのまた返礼で当時の大統領アイゼンハワーのソ連訪問を実現するためのものであった。


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