リチャード・ニクソン
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カリフォルニアに戻ったニクソンは地元のウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職し、やがて1939年には自らの弁護士事務所を開業した[8]。そして弁護士として活動中の1940年6月11日に、演劇サークルで知り合ったネバダ州出身の高等学校教師テルマ・キャサリン・ライアン(愛称パット)と結婚した。

結婚後の1941年12月に、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃でアメリカが対日参戦した時に、首都ワシントンD.C.の連邦物価統制局に就職して、リチャードとパットはワシントンD.C.に居を移すこととなった。
アメリカ海軍時代アメリカ海軍時代のニクソン少佐

1941年12月にアメリカも参戦した第二次世界大戦の太平洋戦線では、アメリカ軍は真珠湾攻撃で太平洋艦隊が手痛い損失を受けた上に、1942年に入るとニクソンの地元のカリフォルニア州南部に日本海軍の艦艇による砲撃を受けたほか、日本軍機による爆撃を受けるなど各地で日本軍に対し劣勢に立たされていた。

そのような状況下で、1942年6月にニクソンは士官募集に応募して海軍に入隊した。海軍への入隊後には海軍士官としての通常の訓練を受けたものの、修士号のみならず弁護士資格を持つことや、物価統制局での勤務経験があることから一般の戦闘要員とはならず、補給士官に任命された。

入隊後はしばらくアメリカ国内のアイオワ州の基地で勤務した後に、1943年5月より日本軍と死闘が繰り広げられていた南太平洋戦線のニューヘブリデス諸島に配属された。やがて戦線の移動とともにフランスニューカレドニアソロモン諸島などへ転属され、主に戦線へ軍需物資を補給する補給士官として前線での兵站業務に就いたが、昼夜を問わない日本軍の爆撃に悩まされ、多くの戦友を亡くした。

1944年7月にはブーゲンビル島の前線より国内に帰還する。その後はカリフォルニア州アラメダの海軍航空基地に勤務し、その後1945年1月にはアメリカ東部のフィラデルフィアの基地への移転を命じられ、そこで5月のドイツ降伏、8月の日本降伏で終戦を迎えた。この海軍勤務時代に後にニクソン政権の国務長官となるウィリアム・P・ロジャーズと知り合っている。

海軍ではブーゲンビル島の前線でハンバーガーを気軽に採れる屋台を出して人気となり、また海軍にいる間にポーカーを覚えたニクソンは、「アメリカ海軍きってのポーカーの名手」としてつとに知られ、前線時代を中心に1945年8月15日の終戦までに賭けポーカーで1万ドル以上を稼いだといわれている。
政治家へ
弁護士

第二次世界大戦の終結に伴い、少佐で海軍除隊後にペプシコ社の弁護士になり、ペプシコーラの世界進出に協力。「アメリカの産業を保護する」という大義名分のもとに各国の炭酸市場での販路拡大活動に活躍し、さらに国際的な弁護士の看板はヨーロッパ日本で人脈を築くのにも役立った。しかしこの仕事を通じて知り合ったアメリカをはじめとする各国の政治家の倫理観の低さに本気で呆れていたという。
下院議員上院議員選挙時のニクソン

1946年、母校であるウィッティア大学の総長や、母の知人であるバンク・オブ・アメリカのウィッティア支店長ら地元有力者からの推薦を受け、地元のカリフォルニア州の第12下院選挙区から共和党候補として立候補した。このニクソンの立候補に対して妻のパットは当初反対したものの、その後女性票を獲得するために自ら集会であいさつ回りをするなどの献身的な支えもあり、民主党選出で、労働組合をその主な支持基盤とする現職のジェリー・ヴアリスを破り下院議員に選出された[9]

同じ年の選挙でマサチューセッツ州で民主党から立候補したジョン・F・ケネディも初当選し、この2人は南太平洋地域で従軍したアメリカ海軍の退役軍人出身という共通の経歴から、議員活動では友好関係を築いた。

下院議員となったニクソンは下院非米活動委員会のメンバーとなり、ウィリアム・P・ロジャーズなどの協力を受けて、東西冷戦でソ連との緊張激化の中で当時「赤狩り」旋風を巻き起こしていた共和党上院議員ジョセフ・マッカーシーとともに、元共産党員でソ連にアメリカの機密情報を流したとされたトルーマン政権の高官アルジャー・ヒスについて、当初事実無根というヒスの証言を受けて他の議員が追及しなかった中で唯一人追及の手を緩めず、ついに偽証罪に追い込んだことで「反共の闘士」として彼の名が全米に知れ渡った。
上院議員

1950年上院議員選挙に立候補して、民主党の対立候補で女優であるヘレン・ギャーギャン・ダグラス(英語版)と議席を争った。この選挙では地元の油田開発に反対するダグラスのリベラルな言動が有権者に嫌われ、また選挙の活動期間中に朝鮮戦争が勃発し反共的な風潮が強まったことも追い風となり、ダグラスに大差をつけて当選し上院議員に選出された。

しかし、この選挙の際のニクソンの言動が後々まで尾を引くこととなった。夫が左翼シンパとして有名であったが自らは「リベラル派」との評価を受けていたダグラス[10] に対してニクソンは「共産主義者」のレッテルを貼った。そのことが多くの左派リベラル派のジャーナリストの反感を呼び、後の副大統領候補として立った際に執拗な攻撃を受ける要因となった。彼にとってはリベラル派も共産主義であり、対立候補をことごとく「共産主義者」のレッテルを貼って攻撃する戦略をとったため、民主党は「トリッキー・ディック」と呼んで反駁した[11]
1952年アメリカ合衆国大統領選挙

しかし、これらの活動が共和党内の保守派を中心に高い評価を受け、1952年アメリカ合衆国大統領選挙において、わずか39歳でドワイト・D・アイゼンハワーの副大統領候補に指名された。この年の大統領選挙での顕著な出来事の1つは、当時一般家庭に普及が進んでいたテレビが大統領選挙に大きな影響力を持っていることが明らかになったことである。その最初の例がニクソンが行ったテレビ演説であった。
「チェッカーズ・スピーチ」「チェッカーズ・スピーチ」を行うニクソン詳細は「en:Checkers speech」を参照

副大統領候補に指名される前からニクソンは、彼に金銭的余裕がないことを知った地元の有志たちが作った支援基金団体から政治活動資金の援助を受けていた。民主党大統領候補のアドレー・スティーブンソンも同様の資金援助を受けていたにもかかわらず、共和党に批判的であったタブロイド大衆紙ニューヨーク・ポスト紙は、共和党全国大会で副大統領候補に指名されて大統領選挙の本選に入った1952年9月18日に、このニクソンの資金援助の事のみを「ニクソンの秘密信託基金」と批判し[12]、さらに「2万ドルを受け取った」、「物品の提供も受けた」と伝えた。さらに元々共和党支持の「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙までがその社説で「ニクソンは辞表を提出すべきである」と主張した[13]

その後アイゼンハワーの選対本部はこの記事が大統領選挙に与える影響を憂慮し、選対本部の一部はニクソンを副大統領候補から降ろすことや、議員辞職をさせることまでを画策しはじめた[14][注釈 1]

これに対してニクソンは、「候補を降りることや議員を辞職すれば、これらの疑惑を認めてしまうことになる」と言って候補から下りることを拒否し、テレビで自ら潔白であることを訴える演説を行うこととした。1952年9月23日夜にその模様は全米にテレビ中継された。この演説の冒頭にニクソンは「今夜私は皆さんの前に、米国の副大統領候補として、またその正直さと誠実さを問われている1人の人間として立っています」と述べて、ニクソン家のありとあらゆる私財リストをさらけ出した[16]。「カリフォルニアの両親が住んでいた家が3千ドルで借金1万ドル、ワシントンの自宅が2万ドルでそのまま借金2万ドル、生命保険が4千ドルで借金5百ドル、株と社債はゼロ、ワシントンの銀行からの借金が4千5百ドル、両親から借りた金が3千5百ドル……」自分の個人資産の詳細を事細かく説明して、いかに質素な生活をしているかを訴えた。

逆にトルーマン政権の閣僚の妻達の中には「院外活動をする人々から高価な毛皮コートを受け取った」と告発されている者がいた事を受け、横に座る妻のパットが「ミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」と言ってトルーマン政権の閣僚を皮肉るとともに、「以上が私たちの財産と負債の全てです。問題の1万8千ドルは私たちのためには使っていません」として支援基金団体から提供された資金を私的に使用したことを明確に否定した[17]


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