リチャード・ニクソン
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大気浄化法(マスキー法)に署名[注釈 15]

自然環境と生態系と自然資源の被害を予防するための国家環境政策法に署名。

猥褻物およびポルノに関する委員会の「犯罪の原因にならず成人に自由に提供されてよい」とする報告書を「道徳の崩壊」として不承認(1970年10月2日)[53]


1971年

景気対策としての減税とドルと金との交換停止、10 %の輸入課徴金の実施、賃金・物価の凍結を発表(8月)。(第2次ニクソン・ショック・ドル・ショック)


1972年

1月にスペースシャトル計画を承認(1月)[注釈 16]

ラムサール条約に調印[注釈 17]

水質清浄法(水のマスキー法)に署名[注釈 18]


1973年

麻薬取締局 (DEA) を設置。


ドル・ショック

1971年8月の新しい経済政策の発表は世界を驚かせた。ニクソンは景気対策で好ましい成果を挙げることが出来なかった。そして1971年夏にはインフレ、高い失業率、不況というスタグフレーションに苦しめられて、中華人民共和国への電撃的な訪問を発表した直後に、上下両院の共和党議員との懇談の席で国内の経済状況についての苦言と注文を出されていた。そして8月に発表した新経済政策で誰も想像しなかったドルの金交換停止、輸入課徴金制度の設立、物価、賃金の凍結という思い切った施策を打ち出した。

これらは不況から抜け出せないアメリカを取り巻く状況で、ドルの切り下げが避けられない局面で、単なるドル平価の問題とせず、多国間での通貨調整という場にして劇的に行うことで、当面の問題解決を狙ったものであった。しかし、結局は固定相場制が崩れて変動相場制に完全に移行して、アメリカが再び強い経済力を発揮するのは1980年代に入ってからであった。

また、1974年には財政赤字を賄うのにも必要なドルの裏付けのためにキッシンジャー国務長官とともにサウジアラビアを訪問してファイサル国王やファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ第二副首相兼内相との会談で原油をドル建て決済で安定的に供給するサウジアラビアに米国は安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を結んでオイルダラーを確立することでドル防衛に成功した[54][55][56][57][58]
環境対策の推進

工場などからの排出物による大気汚染水質汚染土壌汚染に対する非難の声が高まっていたことを受けて、市民の健康保護と自然環境の保護を目的とする連邦政府の行政機関であるアメリカ環境保護局 (EPA) を1970年12月2日に設立した。設立に先立ち、共和党の支持基盤である大企業からの反発は大きかったものの、環境保全に対する信念と、環境問題に敏感な地元のカリフォルニア州民を中心とした国民の声を背景にこれを推進した。
麻薬取締局の設置

ニクソンはベトナム戦争やヒッピーの流行に合わせてアメリカ国内で若者を中心に流通が増加し、当時アメリカにおいて深刻な社会問題になっていた麻薬に対して強硬な態度をとり続けた。1970年には特定の薬物の製造、輸入、所有、流通を禁止した規制物質法の策定を行い、1973年5月には、連邦麻薬法の国施行に関する主導機関であり、国外におけるアメリカの麻薬捜査の調査および追跡に関する単独責任を有している「麻薬取締局 (DEA)」の設置を行った。
1972年アメリカ合衆国大統領選挙2期目の就任式で宣誓を行うニクソン

1972年アメリカ合衆国大統領選挙では、1期目の実績を高く評価されたニクソンが予備選段階で圧勝し、共和党候補としての指名を受けた。副大統領候補は1期目においてその実務能力が高く評価されていたスピロ・アグニューが引き続き務めることとなった。

民主党は上院院内幹事のエドワード・ケネディが、すでに1969年飲酒運転の上で不倫中の女性秘書を死亡させた「チャパキディック事件」で1972年アメリカ合衆国大統領選挙の立候補を辞退した。当初は1968年アメリカ合衆国大統領選挙で副大統領候補だったエドマンド・マスキーが本命候補と目されたが、ニクソン陣営による妨害工作もあり、予備選挙途中で失速してジョージ・マクガヴァンが民主党大統領候補となった。しかしマクガヴァン陣営は、副大統領候補のトマス・イーグルトンが病気で急遽候補を降り、ケネディ家の遠縁に当たるサージェント・シュライバー(英語版)が変わって候補となるなど混乱したことや、マクガヴァンの妊娠中絶やマリファナ合法化容認に対する姿勢の甘さなどが指摘されたこともあり、劣勢に置かれることとなった。

投票は1972年11月7日に行われ、ニクソン陣営は一般投票の60 %以上を得て、得票率で23.2 %という大差を付け、マクガヴァン陣営を破り、アメリカ政治史上で最も大きな地滑り的大勝の1つで再選された。ロジャー・ストーンらスタッフの献身的な働きもあり、全米50州のうちマサチューセッツ州でのみ敗れた(州ではないコロンビア特別区でも敗れている)。しかしこの選挙において、ニクソンの再選に向けて動いていた大統領再選委員会のスタッフが、ニクソンの大統領として、そして政治家としての命運を絶つ事件を起こすことになった。
副大統領交代左からキッシンジャー(国務長官)、ニクソン、フォード(副大統領)、ヘイグ(大統領補佐官)

高い実務能力で第1期を通じてニクソン政権を支えた功績を評価され、2期目も引き続き副大統領を務めたアグニューは、ボルチモア連邦地方検事のジョージ・ビールにメリーランド州知事時代の収賄の証拠をつかまれ、1973年10月10日に副大統領職を辞任した(その後、法曹資格も失った)。

同日、ニクソンは下院院内総務であるジェラルド・R・フォードを副大統領に指名した。その後、上下両院の承認をうけて(上院は11月27日に賛成92対反対3で承認、下院は12月6日に賛成387対反対35で承認)、フォードは第40代副大統領に就任した。

これはケネディ大統領暗殺事件を契機に1967年に制定された合衆国憲法修正第25条(大統領が欠けた時の副大統領の昇格ならびに副大統領が欠けた時の新副大統領の任命に関する規定)が適用された初めてのケースとなった。
ウォーターゲート事件と辞任記者会見で厳しい質問攻めに会うニクソン
(1973年10月26日)ホワイトハウスを去るニクソン詳細は「ウォーターゲート事件」を参照

外交と内政で大きな成果を収め、内外からその手腕が高い評価を受けて大統領選挙で再選を果たしたニクソンを、アメリカ史上初めての大統領任期中の辞任という不名誉な状況に追い込んだのが、大統領選挙の予備選挙が最終盤を迎えた1972年6月に起きた民主党全国委員会本部への不法侵入および盗聴事件、いわゆる「ウォーターゲート事件」である。

1972年6月17日ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会本部オフィスへの不法侵入と盗聴器の設置容疑で逮捕された5人のうち、1人はジェームズ・W・マッコード・ジュニアでニクソン大統領再選委員会の警備主任であった。また他の2人が所持していた手帳には、元ホワイトハウス顧問エヴァレット・ハワード・ハントの自宅の電話番号と「House.WH」と書かれていた。このために、ニクソン政権に近い者がこの事件に何らかの形で関与されていると疑われたが、当初ニクソンとホワイトハウスのスタッフは「民主党全国委員会本部オフィスへの侵入事件と政権とは無関係」として、1972年秋の大統領選挙には全く影響は無かった。

しかし2期目の大統領就任後の1973年3月になって、マッコードが大統領再選委員会とホワイトハウスのスタッフが関与していることを明らかにして、これが政権の屋台骨を揺さぶるスキャンダルに発展した。

そして上院に特別調査委員会が設置されて、委員会の質疑からやがて侵入事件発覚後のかなり早い時期にニクソンが知って「もみ消し」に関わっていたかが焦点となっていった。そしてこの事件調査の過程で、大統領執務室内の会話が録音されている(バターフィールド証言。但しこれはニクソン以前にケネディも行っていた)ことが判明して、その会話を録音したテープの提出を求められて、事件の調査は事件直後にホワイトハウス内でどのような会話がされていたのかが焦点となった。最初は録音テープの提出を拒み、やがて一部提出されたテープには18分も消去された部分があって、謎が深まった。そして1973年10月にニクソン自身がこの事件調査のため設置して司法長官が任命したアーチボールド・コックス特別検察官を突然解任しようとして司法長官や次官が相次いで辞任する事態(土曜日の夜の虐殺)となり、国民にも「大統領はもみ消しに関わっていた」という疑惑が拡大し、しかも同じ時期に副大統領のアグニューが知事時代の収賄事件で突然辞任してニクソン政権は窮地に陥った。これで議会は大統領弾劾に動き始めた。ウォーターゲート事件の渦中、ニクソンと文鮮明ホワイトハウスにて面会した (1974年)

当初ニクソンはこの盗聴事件についてその詳細を知ったのは事件から9か月後の1973年3月であるという説明を行っていた。しかし連邦最高裁の決定で提出された録音テープの会話記録から、実際には1972年6月23日(侵入事件の6日後)にはすでに事件を知っており、明らかなFBIへの捜査妨害を指示していたことが明らかになった。


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