ニクソン時代にはトルーマンやアイゼンハワーの時代の東側諸国に対する「封じ込め政策」はすでに過去のものであり、ケネディ政権の時代に米ソ関係はデタント(緊張緩和)が進んで、部分的核実験停止条約が締結されていたがアジアでの緊張緩和は進まなかった。しかしベトナムからの撤退をスローガンに大統領に当選したニクソンはその政策を進めるために中国との関係改善を就任前から考えていた。
またジョンソン時代に比較的良好な関係にあったソ連とは一層「デタント政策」を推進した。1969年よりフィンランドのヘルシンキでソ連との間で第一次戦略兵器制限交渉 (SALT-T) が開始され、1972年5月にニクソンがソ連を訪問して交渉は妥結してモスクワで調印が行われた。また同時に弾道弾迎撃ミサイル制限条約も締結するなど、米ソ両国の間における核軍縮と政治的緊張の緩和が推進された。
この背景には、ベトナム戦争の早期終結を実現するために中華人民共和国との関係改善を進めたことが、同国と対立していた対ソ関係にも波及したことと、同じくベトナム戦争により膨らんだ膨大な軍事関連の出費が財政を圧迫してドル不安を引き起こしたことで軍事費を押さえる目的もあったと推測されている。
デタントを進めていたニクソン時代でも冷戦特有の第三次世界大戦に発展する可能性があった事件の1つが起きており、第一次戦略兵器制限交渉が開始された1969年の4月には、北朝鮮近くの公海上でアメリカ海軍偵察機が撃墜される事件が発生し、31人の搭乗員が死亡した際、ニクソンは北朝鮮への核攻撃準備を軍に命じるも[39]、当時ニクソンは酩酊状態にあったことからキッシンジャーが「大統領の酔いが醒めるまで待ってほしい」と進言して撤回された[40] という証言もある。
ベトナム(インドシナ)戦争の終結
選挙公約南ベトナムを訪問して大統領のグエン・バン・チューと会談(1969年)カンボジアへの進攻について説明を行うニクソン(1970年)
アイゼンハワーがフランスに代わって行った軍事援助に始まり、後任のケネディにより本格的な軍事介入が開始され、さらにその後任のジョンソンによって拡大・泥沼化されたベトナム戦争を終結させ「名誉ある撤退」を実現することをニクソンは大統領選に向けた公約とした。そして当時アメリカの若者を中心に増加していた「ヒッピー」や過激なベトナム反戦論者、またそれらと対極に位置する強硬な保守主義者などの強い主張も嫌う、アメリカ人の大多数を占める「サイレント・マジョリティ」(物言わぬ多数派)に向かって自らのベトナム政策を主張し、一定の支持を受けることに成功した。 大統領に就任したニクソンは、1969年7月30日に南ベトナムへ予定外の訪問をし、大統領グエン・バン・チューおよびアメリカ軍司令官と会談を行った。その5日前、1969年7月25日には「ニクソン・ドクトリン」を発表し、同時にベトナム戦争の縮小と終結にむけて北ベトナム政府との和平交渉を再開した。前年のジョンソンの北爆停止声明直後の1968年5月にパリに於いて、北ベトナム政府との正式な協議は始まっていた。しかしその後の1970年4月にアメリカ軍は、中華人民共和国から北ベトナムへの軍事支援の経由地として機能していたカンボジアへ侵攻、翌1971年2月にはラオス侵攻を行い、結果的にベトナム戦争はさらに拡大してしまう。撤退するために戦線を逆に拡大するニクソン流のやり方は、最後のパリ和平協定が締結する直前まで続く。 その後も継続してベトナム戦争終結を模索したニクソンは、パリでの北ベトナム政府との和平交渉(四者会談)を継続させた上でキッシンジャー補佐官が和平交渉とは別に極秘に北ベトナム担当者と交渉に入った。それは北ベトナムへの強い影響力を持つ中華人民共和国を訪問した1972年の秋で、ようやく秘密交渉が進み締結寸前までいった1972年12月には逆に北爆が強化されて爆撃が交渉のカードとして使われるなど硬軟織り交ぜた交渉は、パリでの正式な交渉開始から4年8か月経った1973年1月23日に北ベトナム特別顧問のレ・ドク・トとの間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。しかしながら、秘密和平交渉に時間がかかり、最後にはハノイに爆撃するなど「ニクソン・ドクトリン」の発表からも、3年半以上に亘って戦争を継続する結果となった。 そして4日後の1月27日に、ロジャーズ国務長官と南ベトナム外相チャン・バン・ラム、北ベトナム外相グエン・ズイ・チンと南ベトナム共和国臨時革命政府外相グエン・チ・ビンの4者の間で「パリ協定」が交わされ、その直後に協定に基づきアメリカ軍はベトナムからの撤退を開始し、1973年3月29日には撤退が完了。ここに、13年に渡り続いてきたベトナム戦争へのアメリカの軍事介入は幕を閉じた。なおこの功績に対して、キッシンジャーとレ・ドク・トにノーベル平和賞が授与された(レ・ドク・トは受賞を辞退した)。 1949年に中華人民共和国が建国された後、朝鮮戦争における米中の交戦と休戦を経て長年の間アメリカと対立関係にあり、ニクソン自身も1967年に「中国が変わらなければ、世界は安全にはならない」と記すなど中華人民共和国への警戒心をあらわにしていた[41]。 しかしながら、1971年7月に中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国との関係を正常化することで、中華人民共和国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、アメリカ軍の南ベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンが、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国との国交を成立させることで北ベトナムも牽制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進めることの一石二鳥を狙い、大統領補佐官であるキッシンジャーを極秘にパキスタンのイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。 この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国首相の周恩来と会談して、正式に中華人民共和国訪問の招待を受けたことからニクソンはテレビで「来年5月までに中華人民共和国を訪問する」と声明を発表し、副大統領時代に印象付けた猛烈な反共主義者で親華派(親台派)のイメージをニクソンに抱いていた世界を驚愕させた[42]。「ニクソンが中国に行く
ニクソン・ドクトリンと秘密和平交渉
アメリカ軍の完全撤退
中華人民共和国訪問北京空港で周恩来首相と握手するニクソン。
(1972年2月21日)中南海で毛沢東と握手するニクソン。
(1972年2月29日)
また1971年12月に起きた第三次印パ戦争ではニクソン訪中の仲介国でもあったパキスタンを中国とともに支援した[44][45][46]。
そして翌年1972年2月21日にエアフォース・ワンで北京空港に到着し、周恩来首相が出迎え握手を交わし、中国共産党主席の毛沢東と中南海で会談し、ニクソンと対面した毛沢東は「我々の共通の旧友、?介石大元帥はこれを認めたがらないでしょう」と歓迎した[47]。また周恩来首相との数回にわたる会談の後、中華人民共和国との関係は改善してやがて国交樹立へと繋がり、その後の外交で大きな主導権を獲得することとなった。
訪中から3か月後にニクソンが行った北ベトナムへの北爆再開と港湾封鎖も中華人民共和国の了解を得たともされている[48]。