リチャード・ニクソン
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国務長官のロジャースなどは重要政策で蚊帳の外に置かれ、キッシンジャー補佐官が重要な外交交渉にあたった[注釈 8]

また、商務次官補(上院承認の必要な高官)に解任を言い渡したのは国家安全保障会議のヒラのスタッフ(C・フレッド・バーグステン……後に財務次官など)であった[注釈 9]。一方で、ハルデマン、アーリックマンの2人は重用され政権の中枢を担った(各人ドイツ系のため「ジャーマン・シェパード」あるいは「ベルリンの壁」と呼ばれていた)。しかしやがてこの弊害によりニクソンは政治生命を失うことになる。

ニクソンは大統領に就任している期間、自分の意見に異を唱える部下や政府機関への強権的姿勢を崩さず、国税庁だけでも長官を2人、長官代理、次官、多数の部長を追い出している[37]

首席補佐官 ハリー・ロビンス・ハルデマン

副補佐官 スチーブン・V・ブル

日程担当特別補佐官 ドワイト・L・チェーピン


内政担当補佐官 ジョン・アーリックマン

国家安全保障担当補佐官 ヘンリー・A・キッシンジャー

副補佐官 アレクサンダー・ヘイグ(後に陸軍大将、国務長官、大統領首席補佐官)

副補佐官 ブレント・スコウクロフト(後に空軍中将、国家安全保障担当大統領補佐官)

上級スタッフ C・フレッド・バーグステンJr.

上級スタッフ モートン・ハルペリン(沖縄返還交渉で若泉敬と接触、国防次官補)

上級スタッフ デービッド・R・ヤング(元NSA、アーリックマンの部下)


法律顧問 ジョン・W・ディーンV

副顧問 フレッド・F・フィールディング(後に大統領法律顧問)
最初はジョン・アーリックマン

大統領報道官 ロナルド・Z・ジーグラー(名目上の上司はハーバート・G・クライン広報連絡局長、ケネス・W・クローソン広報連絡局次長)

大統領個人秘書  ローズ・メアリー・ウッズ

大統領個人法律顧問 ハーバート・W・カームバック

特別補佐官(政治担当)チャールズ・W・コルソン、マレー・チョティナー

大統領顧問 レナード・ガーメント

行政管理予算局 (OMB)

局長 ジョージ・P・シュルツ(後に国務長官)

局長 ジェームズ・R・シュレジンジャー(後にエネルギー長官、国防長官、CIA長官)

次長 フレデリック・V・マレク


外交政策昭和天皇(左から2人目)、香淳皇后(左から1人目)とニクソン(右から2人目)、妻のパット田中角栄首相を迎えるニクソン

ニクソンの外交政策には、カンボジアとチリにおいて政権転覆とクーデターと傀儡政権の樹立などの力を背景とした政策を行うとともに、ベトナム戦争からのアメリカ軍の全軍撤退と軍縮政策の推進、国際協調外交の推進など腹心のキッシンジャーが奉ずるリアリズムを基調とした硬軟織り交ぜた政策を展開した。

ベトナム戦争では交渉と同時にカンボジアやラオスへの侵攻を辞さず、交渉に応じさせるために北ベトナムへの大規模な爆撃と機雷による海上封鎖(ラインバッカー作戦)を強行したり、また北ベトナムと友好国であったものの、ソ連とは対立していた中華人民共和国と突然外交関係を結んで世界を驚かせ、アメリカの威信を傷つけず、主導権を確保したうえでの外交を展開した。

国際経済では突然ドルの金交換を停止し、10%の輸入課徴金を課し、ドルの切り下げをアメリカが主導権を取って多国間通貨調整という枠組みで行った。これは自由貿易の理念からは外れ他国を混乱に巻き込んだが、アメリカの国益を追求し、同国が西側の中心であることを維持するための外交展開であった。

1969年

ベトナムからのアメリカ軍の段階的撤退を開始(6月)。

日本の佐藤栄作首相と会談、在沖縄アメリカ軍の駐留維持と引き換えに1972年の沖縄返還を合意(11月)。


1970年

カンボジアシハヌーク王政を打倒(3月)[注釈 10]

南ベトナムとの国境を越えてカンボジアに侵攻(5月)。

ユーゴスラビアを訪問。ヨシップ・ブロズ・チトー大統領と会談[38](9月)。


1971年

南ベトナムとの国境を越えてラオスに侵攻(2月)。

日本と沖縄返還協定を締結(6月)。

中華人民共和国に翌年訪問すると発表(7月)。(第1次ニクソン・ショック

ドルと金との交換停止。10 %の輸入課徴金実施(8月)。(第2次ニクソン・ショック・ドル・ショック)

アンカレッジで欧州訪問途次の昭和天皇・皇后と会談(9月)。

スミソニアン博物館での多国間通貨調整会議でドルと金との交換レートを引き下げ、円などの他国通貨との為替レートでドルの切り下げを決定(12月)。

国際連合で採択された海底軍事利用禁止条約に調印。


1972年

日米繊維交渉で政府間規制で妥結(1月)[注釈 11]

アメリカ合衆国大統領として初の中華人民共和国を訪問。事実上の外交関係を結ぶ(2月)[注釈 12]

沖縄を日本に返還(5月)。

ソビエト連邦を訪問。米ソで戦略核兵器の配備数を制限する第一次戦略兵器制限条約に合意し調印し、また米ソ間で弾道ミサイルに対する迎撃ミサイルの配備数を制限する弾道弾迎撃ミサイル制限条約に合意し調印(5月)。

国際連合で生物兵器禁止条約の採択を推進し調印。

国連人間環境会議国際捕鯨委員会で商業捕鯨の停止を提案[注釈 13]

ラムサール条約に調印[注釈 14]


1973年

パリでベトナム和平協定に調印(1月)。

ドル不安から外国為替取引を市場取引による変動相場制へ移行(2月)。

ベトナムからアメリカ軍が全軍撤退(3月)。

ハワイで日本の田中首相と会談(8月)。

チリアジェンデ政権を打倒(9月)。

第4次中東戦争勃発(10月)。(オイルショック)


デタント推進ソビエト連邦共産党書記長レオニード・ブレジネフ(左)とニクソン(右)

ニクソン時代にはトルーマンやアイゼンハワーの時代の東側諸国に対する「封じ込め政策」はすでに過去のものであり、ケネディ政権の時代に米ソ関係はデタント(緊張緩和)が進んで、部分的核実験停止条約が締結されていたがアジアでの緊張緩和は進まなかった。しかしベトナムからの撤退をスローガンに大統領に当選したニクソンはその政策を進めるために中国との関係改善を就任前から考えていた。

またジョンソン時代に比較的良好な関係にあったソ連とは一層「デタント政策」を推進した。1969年よりフィンランドヘルシンキでソ連との間で第一次戦略兵器制限交渉 (SALT-T) が開始され、1972年5月にニクソンがソ連を訪問して交渉は妥結してモスクワで調印が行われた。また同時に弾道弾迎撃ミサイル制限条約も締結するなど、米ソ両国の間における核軍縮と政治的緊張の緩和が推進された。

この背景には、ベトナム戦争の早期終結を実現するために中華人民共和国との関係改善を進めたことが、同国と対立していた対ソ関係にも波及したことと、同じくベトナム戦争により膨らんだ膨大な軍事関連の出費が財政を圧迫してドル不安を引き起こしたことで軍事費を押さえる目的もあったと推測されている。

デタントを進めていたニクソン時代でも冷戦特有の第三次世界大戦に発展する可能性があった事件の1つが起きており、第一次戦略兵器制限交渉が開始された1969年の4月には、北朝鮮近くの公海上でアメリカ海軍偵察機が撃墜される事件が発生し、31人の搭乗員が死亡した際、ニクソンは北朝鮮への核攻撃準備を軍に命じるも[39]、当時ニクソンは酩酊状態にあったことからキッシンジャーが「大統領の酔いが醒めるまで待ってほしい」と進言して撤回された[40] という証言もある。
ベトナム(インドシナ)戦争の終結


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