リチャード・ニクソン
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経済界では自らが顧問弁護士を務めていたペプシコやカリフォリニアに油田を多く持っていた石油業界、さらに連邦議員時代から副大統領時代にかけては、地元のヨーバリンダの近隣のアナハイムで大規模遊園地の「ディズニーランド」を経営し、映画界でもアニメ映画の製作で高い評価と人気を得ていた保守派の実業家ウォルト・ディズニーなどから多くの支援を受けていたといわれ[注釈 7]、1959年のディズニーランド・アルヴェーグ・モノレールのグランドオープンにニクソンも立ち会い、テープカットをしたのはニクソンの娘トリシアとジュリーの2人であった[34]

ニクソンの支援基盤の1つに、地元の南カリフォルニアに工場を所有していたヒューズ・エアクラフトマクドネル・ダグラスロッキードなどの軍需企業があり、ニクソンもロッキードなどから多額の献金を受けていた。

しかし冷戦下で軍拡を推し進めたアイゼンハワー、ベトナムへのアメリカ軍の軍事介入を拡大し続けたケネディ、ベトナム戦争を拡大・泥沼化したジョンソンなど、軍需産業への発注拡大や軍の規模拡大になる政策を多数推し進めた前任者らとは異なり、デタントの推進やベトナム戦争からの全面撤退という、軍需産業への発注削減と軍の規模削減政策を大規模に遂行したことは後年高い評価を受けることとなる。
南部戦略1972年アメリカ合衆国大統領選挙におけるニクソン詳細は「南部戦略」を参照

ニクソンは大統領に就任してすぐに4年後の大統領再選を目指した選挙戦略として南部戦略を立てた。それは南北戦争後に共和党は北部に強く、民主党は南部に強いと言われてきたが、ニクソンの共和党は南部に対して共和党の影響力を増す努力を惜しまなかった。もともと奴隷制廃止を主張していた共和党は南北戦争後に議会で絶対的多数派となり、リンカーン大統領以降では20世紀初頭のタフトまで、1人の大統領を除いて共和党の大統領が続いていた。この背景には共和党のもともとの支持基盤が北部の商工業者や労働者、そして解放された黒人層であって保守的な南部白人を支持基盤とする民主党を圧倒していたことがその理由であった。

ところが、この19世紀後半から続いていた共和党の圧倒的優位の体制が崩れたのは1929年の大恐慌で、歴代の共和党政権の経済への不介入政策が国民からの離反を招き、民主党のフランクリン・ルーズベルト政権が誕生しニュー・ディール政策の実行で、北部労働者や農民、そして黒人層が民主党支持に結集して、これにもとからの支持基盤であった保守的な南部白人を加えたいわゆるニューディール連合と呼ばれる強固な民主党の支持基盤が出来て、フランクリン・ルーズベルト以降はアイゼンハワーを除いてジョンソンまで民主党大統領が続く結果となり、共和党は議会でも常に少数派に留まることになった。

これに対して、ベトナム戦争をめぐる国内の混乱および南部白人層に対してリベラルな民主党が次第に支持を失っている現状から、この南部白人層に対して共和党への支持を増やすことをニクソンは目指していった。1972年大統領選挙でジョージ・マクガヴァンが民主党大統領候補に指名されると南部の保守的な白人の民主党員はこれに反発して共和党支持へ回る傾向が増していった。ニクソンは南部諸州での票を取り込むために精力的に運動を展開して、選挙で圧勝して、共和党の南部進出を強固なものとした[35]。これが後に1981年のロナルド・レーガン共和党政権の誕生とともに南部での強固な共和党支持基盤となり、民主党員でありながらレーガンを支持するレーガン・デモクラットと呼ばれる共和党支持層を形成することとなった[36]
内閣

職名氏名任期
アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン1969年 - 1974年
副大統領スピロ・アグニュー1969年 - 1973年
ジェラルド・フォード1973年 - 1974年
国務長官ウィリアム・P・ロジャース(英語版)1969年 - 1973年
ヘンリー・キッシンジャー1973年 - 1974年
財務長官デヴィッド・ケネディ1969年 - 1971年
ジョン・コナリー1971年 - 1972年
ジョージ・シュルツ1972年 - 1974年
ウィリアム・サイモン1974年
国防長官メルヴィン・R・レアード(英語版)1969年 - 1973年
エリオット・リチャードソン1973年 - 1973年
ジェームズ・R・シュレシンジャー1973年 - 1974年
司法長官ジョン・ミッチェル1969年 - 1972年
リチャード・クラインディーンスト(英語版)1972年 - 1973年
エリオット・リチャードソン1973年 - 1974年
ウィリアム・B・サクスビー(英語版)1974年
郵政公社総裁ウィントン・ブローウント(英語版)1969年 - 1974年
内務長官ウォルター・J・ヒッケル(英語版)1969年 - 1971年
ロジャース・C・B・モートン(英語版)1971年 - 1974年
農務長官クリフォード・モリス・ハーディン1969年 - 1971年
アール・ラウアー・バッツ1971年 - 1974年
商務長官モーリス・H・スタンス(英語版)1969年 - 1972年
ピーター・G・ピーターソン(英語版)1972年 - 1973年
フレデリック・V・デント(英語版)1973年 - 1974年
労働長官ジョージ・シュルツ1969年 - 1970年
ジェームズ・ホジソン1970年 - 1973年
ピーター・ブレナン(英語版)1973年 - 1974年
保健教育福祉長官ロバート・ハチソン・フィンチ1969年 - 1970年
エリオット・リチャードソン1970年 - 1973年
キャスパー・ワインバーガー1973年 - 1974年
住宅都市開発長官ジョージ・ロムニー1969年 - 1973年
ジェイムズ・トマス・リン1973年 - 1974年
運輸長官ジョン・A・ヴォルペ(英語版)1969年 - 1973年
クロード・ブリンガー(英語版)1973年 - 1974年

ホワイトハウスニクソンと政権メンバーニクソンと側近(左からハルデマン、ジーグラー、アーリックマン)

ニクソンの政権の特徴は、それまでの大統領よりさらにホワイトハウスに権力を集中させ、閣僚の権限を抑え込んで帝王的大統領制と呼ばれたところにある。国務長官のロジャースなどは重要政策で蚊帳の外に置かれ、キッシンジャー補佐官が重要な外交交渉にあたった[注釈 8]

また、商務次官補(上院承認の必要な高官)に解任を言い渡したのは国家安全保障会議のヒラのスタッフ(C・フレッド・バーグステン……後に財務次官など)であった[注釈 9]。一方で、ハルデマン、アーリックマンの2人は重用され政権の中枢を担った(各人ドイツ系のため「ジャーマン・シェパード」あるいは「ベルリンの壁」と呼ばれていた)。しかしやがてこの弊害によりニクソンは政治生命を失うことになる。

ニクソンは大統領に就任している期間、自分の意見に異を唱える部下や政府機関への強権的姿勢を崩さず、国税庁だけでも長官を2人、長官代理、次官、多数の部長を追い出している[37]

首席補佐官 ハリー・ロビンス・ハルデマン

副補佐官 スチーブン・V・ブル

日程担当特別補佐官 ドワイト・L・チェーピン


内政担当補佐官 ジョン・アーリックマン

国家安全保障担当補佐官 ヘンリー・A・キッシンジャー

副補佐官 アレクサンダー・ヘイグ(後に陸軍大将、国務長官、大統領首席補佐官)

副補佐官 ブレント・スコウクロフト(後に空軍中将、国家安全保障担当大統領補佐官)


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