リチャード・ニクソン
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さらに禁酒法時代に密造酒の生産と販売を行っていた関係から、東海岸やシカゴ一帯のマフィアと関係の深いケネディの父ジョセフも、マフィアの協力の下、マフィアやマフィアと関係の深い労働組合・非合法組織を巻き込んだ大規模な選挙不正を行っていたことが現在では明らかになっている[26][27]

これらのケネディ陣営に対するマフィアによる選挙協力のみならず、選挙終盤におけるケネディ陣営のイリノイ州などの大票田における大規模な不正[注釈 5] に気づいたニクソン陣営は正式に告発を行おうとしたが、ニクソンが過去に精神科のカウンセリングを受けた過去[注釈 6] がある証拠をケネディ陣営がつかんでいたものの「切り札」として公開しなかったこともあり、「やぶ蛇になることを恐れ告発に踏み切れなかった」ことと、アイゼンハワーから「選挙結果が出てから告発を行い、泥仕合になり大統領が決まらないままになると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめている[28]
敗北

アイゼンハワーからの説得を受けてケネディ陣営に対する告発を取りやめたニクソンは、最終的に得票率差がわずか0.2ポイント(ケネディ49.7パーセント/3422万984票、ニクソン49.5パーセント/3410万8157票)という、歴史上に残るほどの僅差であった。勝った州はケネディ24州、ニクソン26州。しかし獲得した選挙人数は全選挙人数538人でケネディは303人獲得しており、ニクソンは選挙人219人の獲得に終わり、ケネディの選挙人の多い州を重点に回る選挙戦略の成果であったとも言われている[29] が、やがてケネディの不正が明らかになった。

なおケネディは民主党党員ではあるものの、前記のように友好的な関係を築いていたこともあり、ニクソンがアイゼンハワー政権の副大統領候補者に選ばれた時、ニクソンを祝う一番の友人のうちの1人だった。
不遇時代
弁護士活動再開リンドン・ジョンソンとともに(1961年)

1960年アメリカ合衆国大統領選挙の落選後にニクソンは一時的に政治活動から離れ、ニューヨーク州に移り再びペプシコ社などのアメリカの大企業の弁護士として活動することになった。

なお、この不遇時代には副大統領時代からの友人であり、1960年に首相を辞任した岸信介が度々世話をしており、顧問先を紹介したり、日本に招いて弟の佐藤栄作を交えてもてなしたりしている。このことは、その後の大統領当選後に佐藤政権における沖縄返還要求に対して返還を決定するなど、日米関係に少なからず貢献することになった[30]
カリフォルニア州知事選詳細は「en:California gubernatorial election, 1962」を参照

大統領選挙落選から2年後の1962年11月には政治家としての存在感を引き続き示すためもあり、生まれ故郷であるカリフォルニア州知事選挙に出馬するが、その思いも空しく対立候補のパット・ブラウンに大差で敗れ落選した。

選挙翌日の11月7日ビバリーヒルズのビバリー・ヒルトンホテルで行われた敗北記者会見で失意のニクソンは、詰め掛けたマスコミの記者団を痛烈に批判したあげく「諸君がニクソンを虐めるのはこれで終わりだ。何故なら、これが私の最後の記者会見だからだ("You don’t have Nixon to kick around anymore. Because, gentlemen, this is my last press conference.")」と口走る始末であった。そのため、多くの国民が彼の政治生命の終わりを感じ、同様に多くのマスコミも「ニクソンはもう二度と政治の第一線に浮かび上がることがないであろう」と評した。
確実な地ならし

しかし、その後もペプシコの弁護士としてアジアや中東、南米やヨーロッパなど世界各国を訪れる。その傍ら1964年4月9日に来日し、翌日に池田勇人首相(当時)と首相官邸で会談[31]、駐日大使で学者のエドウィン・O・ライシャワーに対して、アメリカによる中国共産党政府(中華人民共和国)の早期承認を説くなど、持ち前の洞察力と行動力を生かして政界への復活を画策し続けた[32]

ニクソンが野に下っている間にアメリカは、ケネディ政権下で南ベトナムへの事実上の正規軍の「アメリカ軍軍事顧問団」の派遣と大量の武器供与が行われたことにより、本格的な軍事介入を始め、その後を継いだジョンソン政権下で正規軍の地上部隊を投入し北爆を始めて軍事介入が本格化した。

このベトナム戦争をめぐり国内の世論は分裂し、大学生を中心とした若者の反戦運動が過激化するなど混乱状態に陥った。そして1964年大統領選挙で共和党は超保守派の上院議員ゴールドウォーターを大統領候補に立てて惨敗し、党内の体制の立て直しが急務となったことでニクソンは各州を回って地道な党活動を行い、1966年の中間選挙で上下両院とも共和党が圧勝して、ニクソンは党内での自己の地盤を強化し1968年の大統領選挙の布石となった。
1968年アメリカ合衆国大統領選挙詳細は「1968年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照

1962年カリフォルニア州知事選挙での敗北により、ニクソンは共和党の保守派を含む多くのマスコミから「負け犬ニクソン」とまで言われていたが、再び大統領を目指して1968年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬する。そしてこの時期のベトナム反戦運動の激化と現職大統領であるジョンソンの出馬断念、上院議員であるロバート・ケネディの暗殺など民主党の混乱、国内世論の分裂がニクソンに追い風となった。
予備選ジョンソン夫妻とアグニューとともに(1968年)

1968年共和党の予備選挙ではミシガン州知事のロムニーニューヨーク州知事のロックフェラーカリフォルニア州知事のロナルド・レーガンなどと争い終始リードを保ち、選挙戦を有利に進めて8月5日から8日にかけてフロリダ州のマイアミビーチで開かれた党大会において、ニクソンは1回目の投票で候補者に指名され復活を遂げた。副大統領候補にはメリーランド州知事スピロ・アグニューを選んだ。

一方、民主党は当初現職のリンドン・ジョンソンが再選を目指すはずであったが、上院議員であるユージーン・マッカーシーがベトナム戦争反対をスローガンに予備選挙に出馬し、その予備選の直前のベトナムでのテト攻勢で国内世論の流れが変わり、最初のニューハンプシャー州でのマッカーシーの予想外の善戦で、急遽上院議員のロバート・ケネディが出馬宣言をし、窮地に立たされたジョンソンは3月31日にベトナム政策の大幅な変更と大統領選挙不出馬を宣言して、以後ケネディが予備選の本命候補に浮かび上がった。

しかし、ケネディは最後のカリフォルニア州予備選挙で勝利宣言した直後に暗殺され、その後マッカーシーではなく、予備選挙に出ていなかった副大統領ヒューバート・H・ハンフリーが本命視されるようになった。そして同年8月26日から29日にかけてシカゴで行われた党大会で、ジョンソンのベトナム政策に反対するデモ隊が押しかけ、リチャード・J・デイリー市長が動員したシカゴ市警察と衝突し、流血の事態となり600人以上の逮捕者を出すなど大混乱に陥った。最終的に民主党はハンフリーを大統領候補に選んだが、この衝突の模様が全米にテレビで流され、民主党は大統領選挙で回復不可能なほどの大きな不利を受けることとなった。
選挙戦1968年アメリカ合衆国大統領選挙の時のニクソン

選挙戦では前回の轍を踏まず早い時期から選挙運動を開始し、公民権運動やベトナム反戦運動が過激化したことに対して「法と秩序の回復」を訴えた。さらに民主党のケネディ政権が始めジョンソン政権で拡大の一途を辿ったベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を主張し、「これを実現する秘密の方策がある」と語った。

対する民主党の大統領候補のハンフリーは、「偉大な社会」計画の継承を訴え、貧困の撲滅などの実現を主張したが、一方で外交政策、ベトナム政策に関してジョンソン政権から次第に距離を置き始め、批判的な姿勢に転じた。なお他に第三党の候補者として、民主党の前アラバマ州知事で、人種隔離政策を支持する綱領を掲げるジョージ・ウォレスが立候補した。ウォレスは北ベトナムへの無差別爆撃の継続を訴えるカーチス・ルメイ空軍大将を副大統領候補に据え、ベトナム戦争における北ベトナムに対しての強硬な政策の実施を主張した。

ハンフリーは選挙戦が進むにつれニクソンに肉薄し、最終盤では世論調査の支持率で逆転するなど接戦となった。結果は一般投票でニクソンは3178万3783票(得票率43.4 %)で、ハンフリーの3127万1839票(得票率42.7 %)両候補者の得票率の差が0.7 %と、まれに見る接戦をニクソンが制して、第37代アメリカ合衆国大統領に就任する[33]
第37代アメリカ合衆国大統領就任宣誓(左はウォーレン連邦最高裁判所長官、中央はパット夫人、ウォーレンの左にジョンソン、ニクソンの右にハンフリー)大統領ニクソンと副大統領のアグニュー


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