リチャード・ニクソン
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大統領選挙の本選挙に入る時にニクソンが立てた選挙戦略は、前半はペースを上げず、あまり早い段階で盛り上げることはせず、後半のある時期から一気に選挙運動のムードとペースを変えて、特に投票日の3週間前からはテレビと広告を使って盛り上げていき、そしてアイゼンハワーの応援も最終段階に入ってから行うというものであった[23]。前半から盛り上げていくと必ずどこかで中だるみがあり、最初は緩いペースからでいく予定であった。

しかし9月に入ってからの序盤に突然体調を崩し、治療のため2週間入院したことで選挙日程が大幅に狂い、これが選挙運動全体に影響することになった。一方ケネディ陣営は最初から一気に盛り上げていく作戦で積極的に選挙運動を展開する間、ニクソンは病院のベッドにいた。ある人[誰?]は余裕と見ていたが、8月時点での世論調査の支持率はニクソン53 %、ケネディ47 %であった[24]
人種問題

当時注目を受けつつあった人種問題には積極的な対応を見せ、副大統領候補のヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアが「我々は、閣僚に黒人を入れることを考えている」と明言した。また、大リーガーのジャッキー・ロビンソンがケネディ陣営を嫌い、ニクソン陣営支持を明言するなど、人種問題に対し相変わらず中途半端な対応に終始していたケネディ陣営を大きく揺さぶった(実際にケネディが政権を取ると、閣僚はおろか次官クラスにさえ有色人種を入れることはなかった)。

さらにジョンとロバートをはじめとするケネディ陣営が、南部の保守的な白人票欲しさに、公民権運動支持者のキング牧師を「共産主義者」呼ばわりしたマッカーシー議員と未だに良好な関係を保っていたことが、黒人票をニクソンに向かわせた大きな理由となった。
テレビ討論ニクソンとケネディ(1960年)ケネディとのテレビ討論

そして退院後すぐに行われたのがテレビ討論会である。序盤には支持率で完全に優勢であったニクソンは、この時病み上がりで顔色が悪かったにもかかわらず「議論の内容が重要である」としてその勢いを保ったまま、得意の外交政策や人種問題などで論戦してケネディに勝つ作戦であった。しかし後に「ニクソンが接戦に追い込まれ敗北した最も重大な要因は最初のテレビ討論だった」とされている。

そのテレビ討論会は1960年9月26日に第1回が開かれた。この討論会は全米で約7000万人がテレビかラジオで視聴した。白黒テレビに映えるように黒っぽいスーツを着こなし健康的に見えたケネディに対して、グレーのスーツを着て病み上がりの顔のニクソンは視覚的には最初から不利であった。当時はまだ白黒テレビの時代で多くの視聴者には、「背景に溶け込んではっきりしない灰色のスーツを着用し、病弱に見える人が多くの汗をかいている」ようにしか見えなかった。一方のライバルであるケネディは、服飾コンサルタントが白黒テレビを意識して選んだスーツを身に付け、若く健康的に見えた。

討論をラジオで聞いた人々は「討論の内容でニクソンが勝った」と考えたが、テレビで見た一般大衆の印象はそれとは違っていた。後にケネディ陣営はこのテレビ討論会は引き分けであったとしたが、ニクソンと互角であったということで十分な成果であった。結果的には経験が豊富でしかも弁護士であるニクソンに対し、討論内容には劣るもののテレビ的な見栄えでケネディが勝ったとされる。なおこのテレビでの討論会は合計4回行われた。

そしてニクソンの誤算は共和党で指名を受けた時に50州全てを遊説すると述べたことで、病気のために休まざるを得なかったため選挙日程が狂い、選挙戦の一番大事な終盤に選挙人の多い重要な接戦州を回れず、遠いハワイ州やアラスカ州などを回らざるを得なかったことである。ケネディはその間に多くの接戦州を重点的に遊説して最後の逆転につながった。最終的に投票総数ではケネディとは僅差でありながら、獲得した選挙人数では303対219と差をつけられた。

その後、1968年の大統領選挙及び1972年の大統領選挙において、ニクソンはテレビ討論に出演しなかったが当選及び再選を果たしている。1976年の大統領選以降はテレビ討論が行われているため、ニクソンはテレビ討論に出演せずに当選した最後の大統領となっている。
ケネディの選挙不正への対応

この時の選挙において、ケネディが予備選挙中に友人のフランク・シナトラから紹介してもらったシナトラの元恋人ジュディス・キャンベルを経由して、イリノイ州シカゴのマフィアの大ボス、サム・ジアンカーナを紹介してもらいウェスト・ヴァージニア州における選挙への協力を直接要請した他、当時シナトラとマフィアの関係に注目し捜査を行っていたFBIの盗聴により、シナトラが同州のマフィアからケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたことが明らかになっている[25]

さらに禁酒法時代に密造酒の生産と販売を行っていた関係から、東海岸やシカゴ一帯のマフィアと関係の深いケネディの父ジョセフも、マフィアの協力の下、マフィアやマフィアと関係の深い労働組合・非合法組織を巻き込んだ大規模な選挙不正を行っていたことが現在では明らかになっている[26][27]

これらのケネディ陣営に対するマフィアによる選挙協力のみならず、選挙終盤におけるケネディ陣営のイリノイ州などの大票田における大規模な不正[注釈 5] に気づいたニクソン陣営は正式に告発を行おうとしたが、ニクソンが過去に精神科のカウンセリングを受けた過去[注釈 6] がある証拠をケネディ陣営がつかんでいたものの「切り札」として公開しなかったこともあり、「やぶ蛇になることを恐れ告発に踏み切れなかった」ことと、アイゼンハワーから「選挙結果が出てから告発を行い、泥仕合になり大統領が決まらないままになると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめている[28]
敗北

アイゼンハワーからの説得を受けてケネディ陣営に対する告発を取りやめたニクソンは、最終的に得票率差がわずか0.2ポイント(ケネディ49.7パーセント/3422万984票、ニクソン49.5パーセント/3410万8157票)という、歴史上に残るほどの僅差であった。勝った州はケネディ24州、ニクソン26州。しかし獲得した選挙人数は全選挙人数538人でケネディは303人獲得しており、ニクソンは選挙人219人の獲得に終わり、ケネディの選挙人の多い州を重点に回る選挙戦略の成果であったとも言われている[29] が、やがてケネディの不正が明らかになった。

なおケネディは民主党党員ではあるものの、前記のように友好的な関係を築いていたこともあり、ニクソンがアイゼンハワー政権の副大統領候補者に選ばれた時、ニクソンを祝う一番の友人のうちの1人だった。
不遇時代
弁護士活動再開リンドン・ジョンソンとともに(1961年)

1960年アメリカ合衆国大統領選挙の落選後にニクソンは一時的に政治活動から離れ、ニューヨーク州に移り再びペプシコ社などのアメリカの大企業の弁護士として活動することになった。

なお、この不遇時代には副大統領時代からの友人であり、1960年に首相を辞任した岸信介が度々世話をしており、顧問先を紹介したり、日本に招いて弟の佐藤栄作を交えてもてなしたりしている。このことは、その後の大統領当選後に佐藤政権における沖縄返還要求に対して返還を決定するなど、日米関係に少なからず貢献することになった[30]
カリフォルニア州知事選詳細は「en:California gubernatorial election, 1962」を参照

大統領選挙落選から2年後の1962年11月には政治家としての存在感を引き続き示すためもあり、生まれ故郷であるカリフォルニア州知事選挙に出馬するが、その思いも空しく対立候補のパット・ブラウンに大差で敗れ落選した。

選挙翌日の11月7日ビバリーヒルズのビバリー・ヒルトンホテルで行われた敗北記者会見で失意のニクソンは、詰め掛けたマスコミの記者団を痛烈に批判したあげく「諸君がニクソンを虐めるのはこれで終わりだ。何故なら、これが私の最後の記者会見だからだ("You don’t have Nixon to kick around anymore. Because, gentlemen, this is my last press conference.")」と口走る始末であった。そのため、多くの国民が彼の政治生命の終わりを感じ、同様に多くのマスコミも「ニクソンはもう二度と政治の第一線に浮かび上がることがないであろう」と評した。
確実な地ならし

しかし、その後もペプシコの弁護士としてアジアや中東、南米やヨーロッパなど世界各国を訪れる。その傍ら1964年4月9日に来日し、翌日に池田勇人首相(当時)と首相官邸で会談[31]、駐日大使で学者のエドウィン・O・ライシャワーに対して、アメリカによる中国共産党政府(中華人民共和国)の早期承認を説くなど、持ち前の洞察力と行動力を生かして政界への復活を画策し続けた[32]

ニクソンが野に下っている間にアメリカは、ケネディ政権下で南ベトナムへの事実上の正規軍の「アメリカ軍軍事顧問団」の派遣と大量の武器供与が行われたことにより、本格的な軍事介入を始め、その後を継いだジョンソン政権下で正規軍の地上部隊を投入し北爆を始めて軍事介入が本格化した。

このベトナム戦争をめぐり国内の世論は分裂し、大学生を中心とした若者の反戦運動が過激化するなど混乱状態に陥った。そして1964年大統領選挙で共和党は超保守派の上院議員ゴールドウォーターを大統領候補に立てて惨敗し、党内の体制の立て直しが急務となったことでニクソンは各州を回って地道な党活動を行い、1966年の中間選挙で上下両院とも共和党が圧勝して、ニクソンは党内での自己の地盤を強化し1968年の大統領選挙の布石となった。
1968年アメリカ合衆国大統領選挙詳細は「1968年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照


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