リチャード・ニクソン
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けれど6歳の長女トリシアが『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはありません」と述べ、さらに「自分が副大統領候補を辞退するべきか否かについての意見を、共和党全国委員会に伝えてほしい」と訴えた[18]

この放送は、その後「チェッカーズ・スピーチ(英語版)」と呼ばれるほどの大きな反響を視聴者に与えるとともに、「提供された資金を私的に流用した」という批判を払拭し、いわれのない攻撃を受けるニクソンに対する同情と支持を集めることに成功した。さらに、ニクソンを引き続き副大統領候補として留めることを要求する視聴者からの連絡が共和党全国委員会に殺到したことで、副大統領候補の辞退さえ迫られていたニクソンは、引き続き副大統領候補として留まることになった。

しかし、家族だけでなく愛犬までを持ち出したスピーチに対して、一部の左翼的ジャーナリストから「愚衆政治的」との批判を受けることとなった[19]。しかし最初テレビによって救われたニクソンだが、その後はテレビに躓き、最後までテレビに苦しむ政治家となった。
第36代アメリカ合衆国副大統領アイゼンハワーと大統領就任式典に臨むニクソンインドネシアの大統領スカルノとともに

このような逆風にあったものの、その後アイゼンハワーとニクソンのコンビは大統領選挙の本選挙で一般投票の55 %、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となった。

副大統領に就任したニクソンは初の外国への公式訪問として、アメリカに隣接し関係の深いキューバベネズエラをはじめとする南アメリカ諸国を訪問した。ベネズエラの首都のカラカスを訪問した際に反米デモが起こり、暴徒化して地元の警察でさえコントロールできなくなった状況でニクソンのデモ隊に対する沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。

またその後もアフリカ諸国への訪問(アメリカの副大統領として史上初のアフリカ大陸への訪問であった)をはじめとする、諸外国への外遊を積極的に行った。同年の10月5日から12月14日にかけて[20]日本中華民国韓国などの北東アジアからフィリピンインドネシアラオスカンボジアなどの東南アジア、インドパキスタンイランなどの西アジア、オーストラリアニュージーランドなどのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊を行った。この時に11月15日に戦後初の国賓として来日し、日米協会の歓迎会の席で「アメリカが日本の新憲法に非武装化を盛り込んだのは誤りであった」と述べている[21]

また、これより前に1954年4月16日の全米新聞編集者協会の年次大会で「万一インドシナが共産主義者の手に落ちれば全アジアが失われる。アメリカは赤色中国(レッドチャイナ)や朝鮮の教訓を忘れてはならない」と述べた。当時の有力政治週刊誌はチャイナ・ロビー活動に熱心な政治家の一人としてニクソンをあげて、1950年の上院議員選挙の際に中華民国総統?介石から資金の援助があったという噂を書いている[22]

1954年にディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗北した際には「フランスが撤退すればアメリカが肩代わりをする」としてインドシナ出兵論を唱えた。同じ年に中華人民共和国が中華民国の金門・馬祖両島に爆撃をした時は、中国人民解放軍への軍事的対抗を主張した。なおベトナムからのアメリカ軍撤退と中華人民共和国訪問を自ら実現するのはこれからほぼ20年後のことである。そしてこの当時中華人民共和国と結びつこうとしたインドを牽制して、対立するパキスタンに軍事援助を与えた。

インドを訪問した時にネール首相と会談したが、ネールはニクソンを「原則のない若者」として侮蔑の言葉で呼び捨てた[22]。下院議員時代に「赤狩りニクソン」のニックネームで呼ばれ、副大統領になってもその反共主義は変わらなかった。そしてやがて東西対立がまだ厳しい中でソ連を公式訪問してフルシチョフ首相とやりあうこととなった。
「台所論争」ソ連の首相フルシチョフと「台所論争」を行うニクソン詳細は「台所論争」を参照

1959年7月24日には「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦の首都であるモスクワを初めて公式訪問した。これは当時のフルシチョフ政権下におけるいわゆる「雪どけ」にともなう緊張緩和(一時的なものではあったが)などが背景にある。このニクソンのソ連訪問の折にフルシチョフをアメリカに招待し、そのまた返礼で当時の大統領アイゼンハワーのソ連訪問を実現するためのものであった。

この年の初め1月にニューヨークで「ソビエト博」が開催されて、出品された展示品は当時のソ連が誇るミサイルなどの軍事兵器を主力としたもので、対してモスクワでの「アメリカ博」の展示品はアメリカ生活文化の粋を集めたものであった。この時モスクワのソコルニキ公園で開催されたアメリカ博覧会の開会式は、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相を招いて行われた。

ニキータ・フルシチョフ首相を会場内を案内している時に、ニクソンとフルシチョフの間で、会場内に展示してあるアメリカ製の台所用品や日用品・電化製品を前にして、アメリカにおける冷蔵庫の普及と宇宙開発の遅れ、ソ連の人工衛星スプートニク」の開発成功と国民生活における窮乏を対比し、資本主義共産主義のそれぞれの長所と短所について討論となった[注釈 2]

この際にニクソンは、感情的に自国の宇宙および軍事分野における成功をまくしたてるフルシチョフと対照的に、自由経済と国民生活の充実の重要さを堂々かつ理路整然と語った。その討論内容は冷戦下のアメリカ国民のみならず自由主義陣営諸国の国民に強い印象を残し、当時は米ソ間の「台所論争[注釈 3] として有名になった。
アイゼンハワーとの関係妻のパットとともに長女のトリシアと次女のジュリー(腕に抱えて)をアイゼンハワーに紹介するニクソン(1952年9月10日にワシントン国際空港にて)

アイゼンハワーの下で副大統領を務めた期間のニクソンは、1954年3月にスティーブンソンが共和党を「半分アイゼンハワー、半分マッカーシーの党」と攻撃した時に反撃役をこなし、アイゼンハワー政権においていわば「汚れ役」を押し付けられることが多かったものの、この役割を忠実にこなした。

しかしながら、大統領であるアイゼンハワーが1955年9月24日の心臓発作、1956年6月の回腸炎に伴う入院、また1957年11月の心臓発作の際に3度にわたって臨時に大統領府を指揮監督した。これは通常行われる正式な大統領権限の委譲は行われなかった。そして1956年の大統領選挙の時には、アイゼンハワー直々の指示により副大統領の座を降ろされそうになったものの、ニクソンに対する国民からの支持が強いことを知った共和党全国委員長レン・ホールらによって、この指示が取り消されたということもあった。

さらに、アイゼンハワーがニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれた際に「まあ3週間も考えればね」と答え、このやり取りは全国に知れ渡った。これらのアイゼンハワーによる冷遇を薄々感じていたニクソンは「元々アイゼンハワーは私のことを嫌っていた」と漏らすこともあった[10]。また、このころはアメリカにおいて出自による差別がまだ根強く残っていたこともあり、アイゼンハワーの妻のマミーも、貧しいブルーカラー出身のパットのことを陰で「貧乏人」と嘲っていたと言われている[10]

しかし、ニクソンが大統領に就任した1968年に娘のジュリーがアイゼンハワーの孫のデイヴィッド・アイゼンハワーと結婚するなど、アイゼンハワー家との関係はその後改善されただけでなく、より密接なものとなっていく。
1960年アメリカ合衆国大統領選挙詳細は「1960年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照
共和党大統領候補へ選挙中にニューヨークで歓迎を受けるニクソン

アイゼンハワーは1960年時点でもその人気は高かったものの、憲法により三選が禁じられているため[注釈 4]、共和党は1960年の大統領選挙で新しい候補者が立つこととなった。そして副大統領であったニクソンは予備選挙に出馬することとなった。

1960年に行われた共和党予備選挙は共和党中道左派の指導者で、ニューヨーク州知事で大富豪のネルソン・ロックフェラーが立候補の構えを見せたが、離婚歴があってこの当時では大きな不利な要因となり、共和党の大半がニクソンを支持している情勢に、立候補を断念すると表明して、有力対抗馬ロックフェラーの撤退でニクソンは共和党の大統領候補指名争いで有利な戦いとなった。


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