これによって日本に入港できるヨーロッパの国はオランダ1国のみであることが確定した。
以後、日本とイングランド(イギリス)との外交関係は嘉永7年(1854年)の日英和親条約締結まで途絶することになる。 イギリス東インド会社がリターン号の船長に持たせた注文票には以下のようなものがあった[3]。 「我々は、諸君に日本からは金・銀・銅を、また東京(トンキン)や台湾からは、ダマスコ織、絹織物のみならず、その他極東地域やヨーロッパで我々の利益になるような品物をも持ち帰ってほしい。したがって、まず試みとして、次のような品物を送ってほしい。 日本から …(以下略)」
リターン号と日本の産品
着物50着
漆塗り長持10個(その中に着物50着及びその他長持を疵つけないような軽い品物を入れて送ってほしい)
漆塗り大箪笥40個(箪笥が破損しないように引出しに軽い物をつめる)
樟材2トン(バンタムではボルネオ産樟脳を輸入しているが、日本産のものがヨーロッパへ輸出されている。それ故、我々も日本から樟脳を輸入して利益になるかどうか試みてみたい)
大きな壺20個
上質日本陶器製の盃10対
屏風10対
参考文献
『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』 松方冬子著 中公新書 ISBN 978-4-12-102047-5
『鎖国と国境の成立』 武田万里子著 同成社 ISBN 4-88621-330-8
『イギリス革命史 上』 友清理士著 研究社 ISBN 4-327-48145-9
『江戸幕府と国防』 松尾晋一著 講談社選書メチエ ISBN 978-4-06-258546-0
関連項目
日英関係史
クローブ号
脚注^ 同情報は、寛永8年(1668年)に大目付の北条氏長がオランダ側に確認をとっている。
^ 両藩主は、有事の際には長崎奉行とともに対応にあたることになっていた。
^ ⇒新発見「豊臣期大坂図?風」の魅力 オーストリア・グラーツの古城と日本関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター、2009年3月31日