1848年革命に伴う「ローマ共和国」がフランスの介入で失敗した後は、サルデーニャ王国を中心としてオーストリア帝国に対するイタリア統一戦争 (Guerre d'Indipendenza Italiane) が行われ、オーストリア支配下のロンバルディア(旧ミラノ公国)がサルデーニャ王国に併合された。また、トスカーナ、エミリア=ロマーニャ、ウンブリアなど中部イタリアは住民投票によってサルデーニャ王国へ併合されることが決められた[2]。この時の各勢力の旗には、現在のイタリア国旗である、緑白赤の三色旗を基本としたものが用いられた。その後ジュゼッペ・ガリバルディは、私設軍隊である千人隊を率いてシチリア島に上陸し、最終的には南イタリアの両シチリア王国を征服した。彼はこの功績により国民的英雄とされた[3]。
1861年にはイタリア王国が建国され、統一は一応の完成を見る。1866年には普墺戦争に乗じてヴェネト、1870年には普仏戦争に乗じてローマなどの教皇領の残りを併合して半島の統一は終了するが、イタリア人(イタリア系の文化を持つ者)が住む土地全てを統一の対象としたこの運動において、未回収地の併合はその後も政治課題として残った(イレデンタ回収主義[4])。最終的に未回収のイタリアがイタリア王国に統合されるのは、第一次世界大戦におけるイタリアの戦勝の後であった。 リソルジメントの語源はカミッロ・カヴールが発行した新聞『イル・リソルジメント』(il Risorgimento) である[5]。この言葉はイタリア語でri + sorgere + mentoに分けることができる。それぞれ、再び、昇る(発生する、立ち上がる)、事(-mentoは動作を名詞化する)を指し、リナシメント (Rinascimento:ri + nascere + mento)、すなわちルネサンスの「再び、生まれる、事」に対応する[6]。 リソルジメントの起源については、統一直後はウィーン体制以降とする見方であったが、近現代のイタリア史の研究者の間では18世紀後半の啓蒙主義の時代にまで遡るとする解釈、またはフランス革命およびその後のナポレオンによるイタリア統治を出発点とする見方がなされている[5][7]。イタリア統一は1870年の普仏戦争の際のイタリア王国軍によるローマ占領でほぼ完了した[5][8]。 1796年のイタリア
語源と期間
背景
サルデーニャ王国 ジェノヴァ共和国 トレント司教領
フランス帝国領および衛星国 フランス帝国直轄地 イタリア王国 ルッカ・エ・ピオンビーノ公国 ナポリ王国 フランス帝国勢力外 サルデーニャ王国 シチリア王国
中世以降のイタリア「イタリア戦争」も参照
5世紀の西ローマ帝国の滅亡以来、イタリアとよばれた地域、つまりイタリア半島と、その付け根のアルプス以南の大陸部分、サルデーニャやシチリアなどの島々は、ゲルマン人や東ローマ帝国、イスラム勢力などの外来勢力に分割され、統治されてきた。
11世紀から13世紀にかけて、イタリアでは次第に都市国家(英語版)が発達するようになった[9]。この体制はルネサンス時代に絶頂に至るが、16世紀後半から17世紀にイタリアは深刻な経済的・社会的衰退に陥り始めた[10]。教皇国家を含むイタリア諸国は列強国(とりわけハプスブルク家の神聖ローマ帝国・スペインとヴァロワ朝/ブルボン朝のフランス)の代理戦争の場と化した。
18世紀に入るとフランス、ドイツ、イギリスで啓蒙思想が高まり[11]、ピエモンテ公国をはじめとするイタリア諸国でも啓蒙主義改革が行われ、特にトスカーナ大公国ではヨーロッパで最も先進的な改革が実施されている[12]。
18世紀末時点のイタリアにはサルデーニャ王国、ジェノヴァ共和国、トレント司教領(英語版)、パルマ公国、モデナ公国、ヴェネツィア共和国、トスカーナ大公国、ルッカ共和国、サンマリノ共和国、教皇国家そしてナポリ=シチリア王国が分立しており、旧ミラノ公国など一部はハプスブルク帝国の支配下にあった。
ナポレオン体制「フランス革命戦争」および「ナポレオン戦争」も参照
1789年のフランス革命の勃発はイタリアの知識層にも影響を与え革命運動を活発化させ、革命家たちは「ジャコビーノ」(ジャコバン主義者)や「パトリオット」(愛国者)と呼ばれた[2][13]。2度にわたってイタリアに侵攻したナポレオンはオーストリア軍およびイタリア諸国軍を破って半島部を征服し、ピエモンテ、トスカーナ、ローマをフランスに併合した。また、北東部から中部にはイタリア王国を建国させ養子のウジェーヌ・ド・ボアルネを副王に任命し、南部のナポリ王国には親族(兄のジョゼフ・ボナパルト、次いで妹婿のジョアシャン・ミュラ)を国王となし、フランス帝国の衛星国とした。