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代表的な人物には経済的自由主義と連邦制を説いた経済学者カルロ・カッターネオ[nb 3]、「イタリアの希望」[97]を著したサルデーニャ王国の歴史家・政治家チェザーレ・バルボ(サルデーニャ初代首相:在任1848年)[98]そして国王に穏健な民主改革を説いたサルデーニャ王国の政治家マッシモ・ダゼーリョ(サルデーニャ首相:在任1849年-1852年)がいる[99]

1839年に自由主義知識人による第1回科学者会議[100]が開催され、以後1848年まで毎年開かれた。知識人たちが科学技術や社会問題について国境を越えて議論をしたこの会議はイタリア意識形成の一助となった[101]。この会議で労働者の貧困救済を目的とした相互扶助協会が設立された[102]。労働者に対する慈善と啓発を目的とした相互扶助協会は政治的性格を持たなかったが、後に労働組合運動の源泉となってゆく[103]ヴィンチェンツォ・ジョベルティ

芸術や文化の分野でもナショナリズムへの傾向が強まった[104]。代表的なナショナリズム作品にはマッシモ・ダゼーリョの『エットーレ・フィエラモスカ(英語版)』[105]マンゾーニの歴史長編小説『いいなづけ』がある[104]。『いいなづけ』の初版はミラノの地域語であったが、1842年版はフィレンツェ語であり、読者がこの言葉を標準イタリア語として共有するようにと意識的に努力している[106]

ピエモンテの聖職者ヴィンチェンツォ・ジョベルティは1843年に出版された著書『イタリア人の倫理的、市民的優位について』で教皇を盟主とする連邦国家を提案し、聖職者をはじめとする保守的な人々から注目された[107]。1846年に選出された教皇ピウス9世は教皇国家の改革を断行して自由主義的教皇と呼ばれ[108]、教皇を中心とするイタリア改革の機運が高まった(ネオグェルフ主義(英語版))[109][110]

これに対して、革命家の多くは共和制を志向していたが、最終的にイタリアを統一する勢力は穏健的な立憲君主制派であった。

だが、こういった統一の機運はローマ教皇庁からの反対にも直面している。教皇ピウス9世はこの地域における権力の放棄はイタリア・カトリック教会に対する迫害につながると恐怖していた[111]。実際、民主主義者たちはカトリック教会に対して嫌悪感を露わにしており、マッツィーニはもはや神の声は教皇ではなく、人民によって語られると教会を攻撃し[112]、イタリア統一後にはガリバルディが教皇位の廃止を主張するほどだった[113]
1848-49年革命と第一次イタリア独立戦争詳細は「第一次イタリア独立戦争(イタリア語版、フランス語版、英語版)」を参照「1848年革命」、「イタリアでの1848年革命(英語版)」、「ミラノの5日間」、「ヴェネト共和国」、および「ローマ共和国 (19世紀)」も参照

1848年にはフランスで2月革命が起き、国王ルイ・フィリップがパリから逃亡して共和国が成立した。この1848年革命の動きはドイツ、オーストリアそしてイタリアにも波及し、ウィーン体制を終焉させた。

ウィーン体制以降、ロンバルディア地方とヴェネト地方はオーストリアが支配するロンバルド=ヴェネト王国となった。オーストリアはナポレオン統治時代の諸改革を継承し、イタリアの他の地域と比べてはるかに近代的な諸制度が整えられていたが、それでも外国支配に対する反感は根強かった[114]。また、ルネサンス期には栄華を誇ったヴェネツィアはこの時代には衰退しており、人口は減少して貧困者が3分の1を占め、その上にオーストリアが貿易港としてトリエステを重視したためにかつて活発だった造船業も寂れ果てていた[115]。1840年代にはヴェネツィアはやや立て直し、観光客が訪れ、鉄道も通るようになった[116]

1848年1月1日にロンバルディアの市民がオーストリア政府の税収源となっていた煙草の購入を止める不服従運動の形態での騒乱が起きた(煙草一揆)[117]。これから暫くしてシチリア島とナポリでも反乱が発生し、フェルナンド2世は1821年の時と同様の妥協をして両シチリア王国に憲法を発布し、政治犯を釈放した[118]。シチリアは分離独立を要求し、独自の憲法を制定して議会を設置した[119]バリケードを組み戦いに備えるミラノ市民
Felice Donghi画。1848年

両シチリアの動きはイタリア諸国に波及し、2月にはトスカーナ大公国でも暴動が起き、これは比較的非暴力なものであったがトスカーナ大公レオポルド2世は憲法を発布させられた。これまで、反動的な政策を固持して来たサルデーニャ王国も3月4日に憲法を制定し[120]、3月15日には教皇ピウス9世が教皇国家の憲法を発布した[121]。これらはいずれも君主によって発布された欽定憲法であり、「憲章」と呼ばれ、主なモデルとなったのはフランスの1830年憲法であり、1814年憲法やベルギーの1831年憲法も参考にされている[116]

一方、オーストリア統治下のロンバルディアでの緊張も高まり、3月13日にオーストリア三月革命(ドイツ語版、英語版)が起こり[122]、宰相メッテルニヒが罷免されたとの報が伝わると3月18日にミラノとヴェネツィアでも民衆蜂起が起こった[123]。ミラノでは3月18日から22日まで激しい市街戦が行われ、反乱勢力はヨーゼフ・ラデツキー将軍率いるオーストリア軍を退却させ、臨時政府を組織した(ミラノの5日間[124]。ヴェネツィアではダニエーレ・マニンの元でヴェネツィア共和国の再興が宣言され、サン・マルコ共和国が設立した(ヴェネト共和国 : Repubblica Veneta)[125]

ミラノにはサルデーニャ軍の先遣隊が入城し、臨時政府と協定を結んだ。一方、マッツィーニをはじめとする民主派もミラノに集結する。穏健派はサルデーニャ王国の介入を要請し、これに対してカルロ・カッターネオジュゼッペ・フェッラーリエンリコ・チェルヌスキら共和国の樹立を望む民主派はフランスの介入を画策してマッツィーニの協力を求めるが、彼はこれを拒絶し民主派は早々に分裂してしまう[126]

サルデーニャ王カルロ・アルベルトは国内世論の高まりと、ロンバルディア獲得の思惑から、オーストリアに対して宣戦布告した[127]。サルデーニャ王国の参戦は大きな反響を呼び、教皇国家から義勇軍が派遣され[nb 4]、ナポリ政府とトスカーナ大公国も参戦を決めた[128]。だが、オーストリアとの全面衝突を懸念した教皇ピウス9世は4月29日にカトリックと民族主義は相容れないと表明して戦争から離脱する[128]


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