国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世はカルロ・アルベルト公を摂政に指名して退位し、カルロ・アルベルトは革命派将校に譲歩して憲法制定に同意した[51]。だが、第一王位継承者のカルロ・フェリーチェはこれを認めず、軍隊を動員するとともに神聖同盟に援助を求めた[51]。オーストリア軍がピエモンテに侵攻し、一般大衆からの支持を欠いた革命は1カ月程で鎮圧された[54]。サンタローザをはじめとするピエモンテの革命家たちは亡命し[55]、帰国して即位したカルロ・フェリーチェは反動的な統治を行うことになる[56]。
反動弾圧の時代開明貴族としてフェデラーティを指揮したフェデリーコ・コンファロニエリ
両シチリア王国そしてピエモンテでの革命瓦解の後、イタリアは反動の時代を迎えた。シチリア島では革命以前よりもカルボナリの活動が活発化したが、激しい弾圧が加えられてそれは当地域の風土的産物とも言える山賊に追い込まれるように溶け込んでいった[57]。1828年南イタリアではフィラデルフのアントニオ・マリア・デ・ルカ主導で「チレントの暴動 (1828年)(イタリア語版)」が起こされるが[58]、これも両シチリア王国の警察大臣フランチェスコ・サヴェーリオ・デル・カレット(イタリア語版)によってすぐさま弾圧された[59]。
サルデーニャ王国でもシチリア島ほどではないが政治弾圧が実施され、のちに穏健派の代表格となるチェザーレ・バルボのような者でさえ亡命を余儀なくされた[60]。教皇国家では極右カトリック「ヅェランティ(英語版)」の首領であったレオ12世が教皇に即位し政府が右翼系結社サンフェディスティと結んでカルボナリを弾圧。枢機卿アゴスティーノ・リヴァローラ(イタリア語版)がその弾圧を主導してアンジェロ・タルギーニ(イタリア語版)やレオニーダ・モンタナーリ(イタリア語版)が処刑された。モデナ公国でも弾圧が苛烈化し、ジュゼッペ・アンドレーリオ(イタリア語版)の処刑を皮切りにアントニオ・パニッツィなど多くの愛国者が亡命を余儀なくされた[61]。だがこの反動の時代で注目すべきは、オーストリア帝国支配下のロンバルド=ヴェネト王国であった[60]。
ロンバルド=ヴェネト王国は初め高圧的な思想統制は行われず、代わりに政府の手で文学者たちに『ビブリオテーカ=イタリアーナ』誌を刊行させ、この中でのドイツ文学の紹介を通じて緩やかな文化的統合、イタリア文化への固執を止めさせることを狙った[60]。しかしこれは却って一部文学者の反発を招き、1818年には本誌を脱退したシルヴィオ・ペッリコやジョバンニ・ベルシェが中心となって『コンチリアトーレ』誌が創刊された。ロンバルディアの開明貴族として秘密結社フェデラーティを指揮していたフェデリーコ・コンファロニエリや起業家ルイージ・ポロ・ランベルテンギが創刊を支援した同誌は、内容は決して革命的ではなかったもののわずか一年で発刊を禁止された[62]。
というのも1818年末、コンチリアトーレに協力していたピエーロ・マロンチェッリが弟に宛てた手紙が当局に発見された。その内容は創刊者ペッリコのカルボナリ入党の儀についてであり、これによりマロンチェッリとペッリコはその他ジャン・ドメニコ・ロマニョーシ(イタリア語版)に代表されるコンチリアトーレ関係者数名とともに逮捕され、裁判で有罪判決を受けていたのである(ペッリコ・マロンチェッリ裁判)[62]。これがロンバルド=ヴェネト王国での政治弾圧の苛烈化の引き金となり、ピエモンテ革命発生後はロンバルディアの愛国者たちがそれに連携しようとしている事を当局が察知、1822年にはフェデリーコ・コンファロニエリ伯以下秘密結社フェデラーティの主要メンバーなどが逮捕された。1824年までにはロンバルド=ヴェネト王国の愛国者はほぼ一掃され、逮捕されたものの多くが死刑判決を受けた[61]。
トスカーナの自由主義ジョバン・ピエトロ・ヴュッソー(イタリア語版)
トスカーナ大公国の知識啓発で大きな役割を果たした。
1820年代はイタリアの愛国者にとっては弾圧つまり暗黒の時代であった。しかしそれにも例外があった。それがルッカ公国とトスカーナ大公国である。ルッカ公国では1824年にルッカ公となったカルロ・ルドヴィーコが寛大な善政を敷き、フランスの反対を押し切ってボナパルティストを国内に迎え入れた[63]。
一方トスカーナ大公国では、大公フェルディナンド3世と宰相ヴィットーリオ・フォッソンブロニ(イタリア語版)の開明的施策のもと、さらに自由主義的な政治・文化が育まれていた。その結果トスカーナ大公国では秘密結社運動そのものが見られず、1824年に大公を継いだレオポルド2世もまた教養に富んだ開明的君主で諸邦からの自由主義者の亡命を受け入れた[63]。
このような政治情勢が反映され、1820年にはジョバン・ピエトロ・ヴュッソー(イタリア語版)が中心となって「ガビネット=シエンティフィーコ=レッテラーリョ(イタリア語版)」という文化施設が開館され、そこで繰り広げられた自由主義的談話はのちに月刊誌『アントロジーア(イタリア語版)』の創刊へと結びついた。