リソルジメント
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  フランス領(第二次世界大戦中に占領):サヴォイア(サヴォワ[nb 11]、ニッツァ(ニース)、コルシカ島



  スイス領:ティチーノ州グラウビュンデン州の一部

  イギリス領:マルタ島


分離運動

先に述べた通り19世紀にもイタリア統一運動の反対者は存在していた(特に併合された諸国の支配層)。この地域主義への支持は現代にも続いている。政党活動に代表される2つの主要な分離運動が存在しており、北部の北部同盟 (Lega Nord) と南部のシチリア独立運動 (M.I.S.) である。南部の分離運動は主に王国政府に対する民衆蜂起に由来している(両シチリア独立運動)。北部同盟は国会に議員を送り込んでおり、以前は国政選挙での得票率は5%に満たなかったが、2008年の総選挙では全国レベルで8%を獲得し躍進を遂げている[345]

ヴェネト地方では自治または独立に向けた機運が高まっている。2009年の選挙では同地方の北部同盟の得票率は28.4%、与党自由の人民(PDL)は29.3%に達した[346]。PDLの主導的議員の中にはイタリア国家の枠組み内でヴェネト地方に自治権(独立ではない)を与える意向を示す者もいる[347]

ボルツァーノ自治県には多数派ドイツ系住民を中心とした完全自治またはオーストリアとの統合を目的とする分離運動があり、この運動は第二次世界大戦後に強まった[348]。分離主義政党は現在でも存在しているが、イタリア政府が自治権を拡大したことによって沈静化している。
評価.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}リソルジメントを自由主義的解釈から肯定したベネデット・クローチェ(左)とマルクス主義的観点から批判したアントニオ・グラムシ(右)

統一直後のリソルジメント研究はサヴォイア王家や偉人英雄を称揚する愛国主義的なものであり、学術性に乏しかったが、その一方で、この時期に史料の収集が進められ文献学的リソルジメント研究の基礎が形成された[349]。愛国主義的な官製リソルジメント解釈に対しては社会主義的観点からの批判が行われている[350]

第一次世界大戦後にはベネデット・クローチェやアドルフォ・オモデーオの自由主義史観が主流となった。自由主義的史観ではリソルジメントをイタリア一国のみの動きではなく、ヨーロッパにおける自由主義運動の一環と捉えており、クローチェはリソルジメントを近代自由主義勝利の範例として「19世紀ヨーロッパの傑作」であると肯定的に評価した[351]。ファシスト政権時代にはリソルジメントはサルデーニャ王国による覇権確立に留まるものではなく、民族全体の復興事業であったと位置付けられている[352]

第二次世界大戦後に共和制に移行して自由な王制批判が可能になると、ファシズムの民族復興神話はもちろん、クローチェの自由主義史観にも批判が加えられるようになった。この動きの中で最も影響力があったものが、ファシスト政権時代に弾圧され死亡した共産党指導者アントニオ・グラムシの「獄中ノート(英語版)」である[353]。1949年に公刊された「獄中ノート」でグラムシは統一の過程でジャコバン主義が欠けていたことを指摘し、その為にリソルジメントは大衆参加を排除した不完全なブルジョワ革命・「受動的な革命」に留まったと批判しており、また従来の研究が無視してきたリソルジメントとフランス革命との関連を考察した[354]

戦後期にはグラムシを支持するマルクス主義研究者とこれを批判するロザリオ・ロメーオ(イタリア語版)をはじめとする研究者の間で盛んに論争が行われ、それまで軽視されてきた民主派の動向やリソルジメントで成立した自由主義国家がファシズム国家に変容する過程が研究されるようになった[355]

リソルジメント専門の研究誌としては、1908年創刊の『リソルジメント史評論』(Rassegna storica del Risorgimento) がある[356]
モニュメントと祝典

ローマ市のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とイタリア統一の偉業を称えた建築物である。建設はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が薨去した1878年に決定され、1882年に建設用地にカンピドリオが選定され、1884年には設計者として当時28歳のジュゼッペ・サッコーニ(英語版)が選ばれた。建設は1885年に始められ、このモニュメントは1911年に落成したが、細部についてはファシスト時代に追加変更がなされている。

2011年はイタリア王国成立から150周年にあたり、イタリア統一を記念して、ローマや最初の首都トリノをはじめとするイタリア各地で祝典や展示会が開催された[357]

イタリア統一150周年を記念して、2010年に作曲家ロレンツォ・フェレーロ(英語版)がオペラ Risorgimento を制作している[358]

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂

ジュゼッペ・マッツィーニのモニュメント。ジェノヴァ

ジュゼッペ・ガリバルディ乗馬像モニュメント(it)。ラ・スペツィア

イタリア統一150周年を記念して三色旗様にライトアップしたトリノ市のモーレ・アントネリアーナ

映像作品

ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサの歴史小説『山猫』(Il gattopardo) は、イタリア統一を時代背景としており、この小説を原作とした映画『山猫』が1963年にルキノ・ヴィスコンティ監督によって制作された。この作品ではバート・ランカスターが題名と同じ紋章を持つ主人公のサリーナ公爵を演じており、彼のリソルジメントに対する反応と貴族社会の没落が描かれている[359]。この作品は第16回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した[359]

その他、この時代を題材とした映画には以下のものがある。

1860(1934年)、監督:アレッサンドロ・ブラゼッティ

Piccolo mondo antico(1941年)、監督:マリオ・ソルダーティ

Un garibaldino al convento(1942年)、監督:ヴィットリオ・デ・シーカ

夏の嵐』Senso(1954年)、監督:ルキノ・ヴィスコンティ

Garibaldi(1961年)、監督:ロベルト・ロッセリーニ

1870(1971年)、監督:アルフレード・ジャンネッティ

Li chiamarono... briganti!(1999年)、監督:パスクアーレ・スクイティエリ(英語版)

副王家の一族』I Vicere[360](2007年)、監督:ロベルト・ファエンツァ

『われわれは信じていた』[361]Noi credevamo(2010年)、監督:マリオ・マルトーネ

(詳細な一覧はイタリア語版を参照)
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国ルッカ共和国は再興されなかった。


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