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1870年7月の普仏戦争開戦に際してナポレオン3世は8月にローマ駐留部隊を呼び戻し、教皇国家の防備は弱体化した[273][nb 8]。だが、イタリア政府はセダンの戦い第二帝政が崩壊するまで、行動を差し控えた。ナポレオン3世の敗北が明白になると、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はグスタボ・ポンツァ・ディ・サン・マルティーノ(英語版)伯爵を教皇ピウス9世の元に派遣し、教皇を保護する名目でイタリア軍をローマに入れると云う形式で教皇の体面を保たせる提案をした手紙を手渡した[274]。だが、教皇ピウス9世はこの提案を拒絶する。(1870年9月10日の)教皇とサン・マルティーノとの会見は友好的なものではなかった。… 教皇はテーブルの上に国王からの手紙を投げ出し、「素晴らしい忠誠だ!貴様らは毒蛇の集まりだ、白々しい偽善者どもだ、そして信仰心に欠けている」と非難した。教皇はおそらく国王からのその他の手紙のこともほのめかしていた。暫しの沈黙の後、教皇は叫んだ。「私は預言者ではなく、預言者の子でもない、だが、あえて言おう、貴様らがローマに入ることは断じてない」。サン・マルティーノは非常に悔しがり、次の日に出立した。 ? Raffaele De Cesare、The Last Days of Papal Rome[275]イタリア軍の攻撃で破壊されたピア門

9月11日にラファエル・カドルナ(英語版)将軍率いるイタリア軍が教皇国家との境界を越え、教皇との交渉が成立して平和的な入城が出来ることを望んで、ローマへ向かってゆっくりと進軍した[276]。9月19日にイタリア軍はアウレリアヌス城壁の前に到着し、ローマを包囲下に置いた。教皇ピウス9世は敗北は避けえないと理解してはいたが、それでもなお教皇庁は無法な暴力に屈したと世界に示すために、彼の兵士たちに象徴的な抵抗を行うよう命じた[277]

9月20日、3時間の砲撃の後、ベルサリエリ(狙撃兵部隊)がピア門を突破して市内に入り、ピア通りを進軍した[nb 9]。この戦いでイタリア軍将校4人と兵士49人、教皇軍兵士19人が戦死した。

10月2日、ローマとラティウムでイタリア王国への合併の賛否を問う住民投票が行われた。住民投票の結果を受け、10月9日に併合が実施された。1871年7月1日、フィレンツェからローマへの遷都が行われた。
年表

西暦イタリア統一関連事項参考事項
1814年(4月)イタリア副王ウジェーヌ・ド・ボアルネがオーストリアに降伏。イタリア王国崩壊
(5月)旧イタリア諸国の君主が復帰
(9月)ウィーン会議(-1815年)(4月)ナポレオン退位
1815年(1月)サルデーニャ王国が正式にジェノヴァ共和国を併合。

(4月)ロンバルド=ヴェネト王国成立
(5月)トレンティーノの戦い、ナポリ王ジョアシャン・ミュラ敗北
(10月)元ナポリ王ミュラ、銃殺刑に処される。(3-6月)ナポレオンの百日天下
(6月)ワーテルローの戦い
1816年(12月)ナポリ王国シチリア王国が統合され、両シチリア王国成立。(7月)アルゼンチン独立宣言
1818年(2月)チリ独立宣言
1820年(7月)ナポリ革命とシチリア革命(1月)スペイン立憲革命
1821年(3月)ピエモンテ革命。サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世退位。カルロ・フェリーチェ即位(3月)ギリシャ独立戦争勃発
(9月)メキシコ独立
1823年(8月)教皇ピウス7世死去。9月にレオ12世選出(12月)アメリカ、モンロー宣言
1825年(12月)ロシアでデカブリストの乱
1827年(6月)アレッサンドロ・マンゾーニ作『いいなづけ』出版
1829年(2月)教皇レオ12世死去。3月にピウス8世が選出
1830年(11月)教皇ピウス8世死去(7月)フランス7月革命
(11月)ポーランド11月蜂起
1831年(2月)中部イタリア革命
(2月)教皇グレゴリウス16世選出
(4月)サルデーニャ王カルロ・フェリーチェ死去。カルロ・アルベルト即位
(6月)ジュゼッペ・マッツィーニ青年イタリアを結成。
1833年(4月)青年イタリア、ピエモンテで蜂起を計画するが失敗。
1834年(3月)青年イタリア、ジェノヴァとサヴォワで蜂起を計画するが失敗。
(4月)マッツィーニ、青年ヨーロッパを結成(この年) ドイツ関税同盟成立
1835年(3月)オーストリア皇帝フランツ1世死去、フェルディナント1世即位
1837年(6月)イギリスでヴィクトリア女王が即位
(この年)イギリスでチャーチスト運動
1839年(10月)第1回科学者会議開催
1840年(6月)アヘン戦争勃発(-1842年)
1843年(8月)ヴィンチェンツォ・ジョベルティが『イタリア人の倫理的、市民的優位について』を出版。
1846年(6月)教皇グレゴリウス16世死去。ピウス9世選出(4月)米墨戦争開戦(-1848年)
1847年(12月)カミッロ・カヴール編集の『イル・リソルジメント』刊行
1848年(2月)シチリアで反乱が発生。両シチリア王国が憲法発布
(2-3月)トスカーナ大公国サルデーニャ王国教皇国家が憲法発布
(3月)ミラノで反乱。(ミラノの5日間
(3月)ヴェネトで反乱、ヴェネト共和国建国。
(3月)サルデーニャ王国、オーストリアに宣戦布告。(第一次イタリア独立戦争
(4月)教皇ピウス9世が対オーストリア戦線から離脱。両シチリアも反動政策に転じる。
(7月)クストーツァの戦い、オーストリア軍勝利
(11月)教皇ピウス9世がガエータへ逃亡。(2月)マルクスエンゲルスが「共産党宣言」を発表。
(2月)フランス2月革命
(3月)第一次ウィーン蜂起メッテルニヒ罷免。(ドイツ3月革命
(3月)ベルリン蜂起(ドイツ3月革命)
(5月)フランクフルト国民議会成立
(6月)フランスで六月蜂起鎮圧
(10月)ウィーンでの十月革命、鎮圧される。
(11-12月)プロイセンで反革命派の巻き返し。
(12月)ルイ=ナポレオンフランス大統領に選出。
(12月)オーストリア皇帝フェルディナント1世退位、フランツ・ヨーゼフ1世即位


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