世界遺産に登録されている旧市街「リガ歴史地区」は約300棟のアールヌーボー調の建築物の宝庫として著名である。新市街は官庁やオフィスが集まる。郊外には、ラトビア民俗博物館があり、野外博物館も兼ねている。また、保養地として知られる海岸、ユールマーラも西方にある。人口約61万人のリガ市はラトビア国内はもとより、バルト三国最大の都市でもある。市内で最も高い建築物はリガラジオ&テレビタワーである。
歴史旧市街の中心地 (ヴェツリガ)
リガの記録は2世紀の時点で見られる。長らくヴァリャーグによる東ローマ帝国への交易ルートとして、ダウガヴァ川は古来より利用されており、河口から15キロに広がるリガは、天然の良港であった。リガという名称もリヴォニア語の「円」という意味から由来する、とされる(港の形状が円形だった)。
12世紀までには交易だけでなく漁業や畜産の拠点となり、ドイツ人商人の入植も12世紀半ばから盛んになる。教皇インノケンティウス3世の命を受けたシトー会のアルベルトが、1200年に北方十字軍を組織してリヴォニアに侵攻し、23隻の軍艦と1500人の十字軍兵でリガを制圧してリーヴ人の服属と改宗を行った。1202年にアルベルトがリヴォニア帯剣騎士団を創立して以降、リガはバルト海とロシアの中継貿易拠点として重きをなす。1282年にはハンザ同盟に加盟し、経済発展の地歩を固めるが、同時にリガの繁栄は侵略者を招くこととなる。1522年には、プロテスタントを受容。1561年のドイツ騎士団の解散で、それ以後の20年間は帝国自由都市となる。
1581年からはポーランド・リトアニア共和国の支配を、1621年からはグスタフ2世アドルフのスウェーデン王国の支配を受ける。リガはスウェーデン王国最大の都市であった。18世紀に大北方戦争が起こると、ロシアのピョートル1世がリガに侵攻し、スウェーデン時代は終焉を迎える。
ニスタット条約でリガはロシアに割譲され、第一次世界大戦までロシア領としてその重要な交易拠点とされた。20世紀まで、ロシアでモスクワやサンクトペテルブルクに次ぐ第3の都市はリガであったが、支配者の変遷にかかわらずリガの住民の多くはバルト・ドイツ人であった。
そうした中で、19世紀後半にはラトビアの民族主義が覚醒する。1918年にはラトビアはブレスト=リトフスク条約でドイツに割譲されるも、第一次世界大戦の終結でラトビアは独立を宣言した。第二次世界大戦までの数年間は、リガが外交・文化的に英国に接近した時代だった。第二次世界大戦が始まると、リガはまずソ連に、そしてナチス・ドイツの軍事占領を経験する。大戦中、バルト・ドイツ人はドイツ本国に脱出し、リガ・ゲットーにいたユダヤ人は銃殺されるかカイザーヴァルト強制収容所送りとなった。1945年にソ連の赤軍が再度リガに軍事侵攻し、ラトビア人を大量に処刑したりシベリア送りにしたことから、市の人口は3分の1にまで激減することになった。その代わりにソ連政府はロシア人をリガに集団移住させ、リガ市の民族構成は一変してしまうが、1991年にはラトビアは独立を回復し、リガも首都に返り咲いた。 リガの気候
気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)10.2