リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ
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競技外でも慈善活動で知られ、2004年に国際連合世界食糧計画の最年少大使に選ばれた[14]。ピッチ内外での活躍により、タイム誌の選ぶ世界で最も影響力のある100人に2008年と2009年に選ばれている[15]
経歴
クラブ
誕生からサンパウロFC時代まで

ブラジルの首都ブラジリアで生まれ、生後すぐにクイアバに移り、7歳の時にサンパウロへ移る。父がサンパウロFCのクラブ会員だったことから、9歳でサンパウロFCのクラブ会員用のチームに加入。当時から技術面では優れたものを持っていたが、他の子たちに比べて線が細く、補欠に甘んじていた。その後、クラブでのトレーニングによってビルドアップに成功し、弱点を克服した。

17歳の頃、クラブの深刻な財政難からトルコのクラブ、もしくはCSKAモスクワに売却されそうになった。だが本人は、「あの時に移籍していても今のように素晴らしいキャリアを築くのは難しかっただろう」と語っている[16]。18歳の時、プールで遊んでいた際に頭部を強打して頸椎を損傷する重傷を負い[17]、あわや下半身不随寸前の怪我だったものの、極度の近視となった以外は幸いにも運動能力にはほとんど影響は見られなかった。カカはこれを神のおかげであるとし、十分の一税を行った[18]。なお、本人は「あの事故を契機に人生観が変わった」と語っている[16]。また、事故から4か月後には2001年2月のボダフォゴ戦でサンパウロのトップチームデビューを果たした。途中出場ながら2得点を決める活躍を見せると、以降サンパウロのトップチームに定着する。
ACミラン時代

2003年、880万ユーロ(約12億円)の移籍金でACミランへ移籍。サンパウロでは背番号8番を、2002 FIFAワールドカップでは23番をそれぞれ着けていたが、ミランでは既にジェンナーロ・ガットゥーゾマッシモ・アンブロジーニがそれぞれの背番号を着けていたため、自身の誕生日の日付にちなんで22番を背負うことになった[16]。入団時のメディカルチェックでは特にずば抜けていた加速値と絶対スピードの項目をはじめ、それまでの選手とはかけ離れて高い数値を記録。ミランラボの担当者は「こんな数字は見たことがなかった」と証言した[19]。移籍初年度である2003-04シーズンの開幕戦から驚異的な活躍でスタメンの座を確立し、同シーズンはセリエAで30試合に出場、チームのスクデット(リーグ優勝)、UEFAスーパーカップ獲得に大きく貢献した。

2004-05シーズンはアンドリー・シェフチェンコの後ろの位置でプレーし、36試合で7得点を決めた。この年、UEFAチャンピオンズリーグでは決勝でリヴァプールFCにPK戦で敗れたものの、カカは投票による大会最優秀ミッドフィールダーに選ばれた。イスタンブールの悲劇ともいわれるリヴァプールFC戦の敗北について、「たとえこの先何度優勝できたとしてもあの敗北を忘れることは出来ない」と語っている[16]。また、2004年には国際連合世界食糧計画における最年少大使となった[20]

ACミランとは当初2009年6月までの契約であったが、2005-06シーズン終了後にはACミランの八百長疑惑によりクラブのセリエB降格の危機が報じられ、カカの元にも複数のクラブから移籍のオファーが舞い込んだ。プレミアリーグチェルシーFCから7000万ポンド(約152億6000万円)という超破格のオファーが来たが、ミランは受け入れなかった。このとき本人も「ACミランが降格しないなら、クラブに忠誠を誓う」と発言。その後2006年7月15日にミランは降格を免れる判決を下された。ミランでのカカ(2007年)

2006-07シーズンは、UEFAチャンピオンズリーグにて10得点を決めブラジル人としてはリバウド以来の得点王となり、チャンピオンズリーグ優勝の原動力となった。また、FIFAクラブワールドカップ2007では1得点3アシストの大活躍を見せ、UEFA年間最優秀選手に輝くと共に、欧州代表として初となるFIFAクラブワールドカップ優勝に導いた。これらの活躍を評価され、2007年はバロンドールFIFA年間最優秀選手賞FIFPro年間最優秀選手賞英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手賞をいずれも初受賞した。また、同年にはレアル・マドリードから8000万ユーロ(約140億円)の移籍金と手取り1400万ユーロ(約20億円)のオファーがあったが、本人は「レアルは僕が欲しいなら、ベルルスコーニ会長の首を縦に振らせればいい」と言い、パオロ・マルディーニ引退後にキャプテンを継ぎたいと語った[21]。そして、2008年には2013年までACミランとの契約を延長した[22]

2009年1月、プレミアリーグのマンチェスター・シティFCがカカ獲得にサッカー界史上最高額の1億ユーロ(約120億円)以上ともいわれる移籍金をミランに提示したことによる移籍騒動が勃発。カカにも年俸1500万ユーロ(約20億円)を提示[23] し、ミランもカカの移籍を容認したものの、本人は残留を希望し、同月19日、ミランに残留することが決まった[24]。また、多くのサポーターは移籍に大反対し、中にはカカの自宅周辺などに集結したサポーターもおり、カカは窓からユニホームを掲げ、笑顔で応えた。この残留により翌日の練習で監督のカルロ・アンチェロッティは、「今冬の補強はカカがこのミランというクラブに残留したことだ」と語った。
レアル・マドリード時代レアル・マドリードでのカカ(2011年)

2009年6月9日、フロレンティーノ・ペレスが会長に復帰したレアル・マドリードの最初の新加入選手として移籍金6800万ユーロ(約92億円)の6年契約で移籍。なお、この移籍金は2001年にジネディーヌ・ジダンが同じくレアル・マドリードに移籍したときの7696万ユーロ(約103億円)に次いで当時史上2番目に高額な移籍金となった[25][26]。紆余曲折の末の移籍であり、カカ本人はこの移籍について会見で「(裏口ではなく)玄関から去る」と語った[27]


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