リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ
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ACミランでのプレーメーカーとしての全盛期は、創造的なパス、スピード、決定力、中盤からのドリブルを武器とし、世界最高の選手の一人と考えられており、専門家からも同世代の中で最も偉大な選手の一人とみなされている[5][6][7][8]。クラブレベルでも代表でも成功を収め、FIFAワールドカップUEFAチャンピオンズリーグバロンドールの3つを獲得した9人の選手の内の一人である[9]

2001年に18歳でサンパウロFCでプロデビューを果たし、サンパウロでの活躍により2003年にセリエAのACミランに加入した。イタリアでの最初のシーズンにリーグ優勝に貢献し、2004-05シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではミランは決勝で敗れたものの、カカは最多アシストを記録して最優秀ミッドフィールダーに選出された。2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでも優勝し、カカは大会得点王となった。このシーズンの活躍により、FIFA最優秀選手賞バロンドールUEFA年間最優秀選手を受賞した。ミランに6年間在籍した後、2009年に当時としては2番目に高額な6700万ユーロという移籍金でレアル・マドリードに移籍した[10]。しかし、スペインでは怪我に悩まされた4シーズンを過ごし、身体能力が急激に低下した後に、2013年に1シーズンだけミランに復帰して、その後メジャーリーグサッカーの新規参入クラブのオーランド・シティSCに加入した。加入当初は古巣のサンパウロFCにレンタル移籍したが、2015年よりオーランド・シティに復帰し、2017年に現役を引退した。

2002年にブラジル代表としてデビューすると、その年のFIFAワールドカップに出場し優勝を果たした。2006年のFIFAワールドカップではロナウドアドリアーノロナウジーニョカルテット・マジコを形成し、2010年のFIFAワールドカップにも出場したが、この2大会のワールドカップでの成績は振るわなかった。2005年と2009年のFIFAコンフェデレーションズカップの優勝メンバーでもあり、2009年大会では大会MVPに選ばれた。

2006年から2009年にかけてFIFProワールドイレブンUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに3回ずつ選ばれた。2010年にはACミランの殿堂入りを果たした[11]。現役時代には世界でもっとも有名なアスリートの一人であり、Twitterで1000万人のフォロワーを獲得した初めてのスポーツ選手だった[12][13]。競技外でも慈善活動で知られ、2004年に国際連合世界食糧計画の最年少大使に選ばれた[14]。ピッチ内外での活躍により、タイム誌の選ぶ世界で最も影響力のある100人に2008年と2009年に選ばれている[15]
経歴
クラブ
誕生からサンパウロFC時代まで

ブラジルの首都ブラジリアで生まれ、生後すぐにクイアバに移り、7歳の時にサンパウロへ移る。父がサンパウロFCのクラブ会員だったことから、9歳でサンパウロFCのクラブ会員用のチームに加入。当時から技術面では優れたものを持っていたが、他の子たちに比べて線が細く、補欠に甘んじていた。その後、クラブでのトレーニングによってビルドアップに成功し、弱点を克服した。

17歳の頃、クラブの深刻な財政難からトルコのクラブ、もしくはCSKAモスクワに売却されそうになった。だが本人は、「あの時に移籍していても今のように素晴らしいキャリアを築くのは難しかっただろう」と語っている[16]。18歳の時、プールで遊んでいた際に頭部を強打して頸椎を損傷する重傷を負い[17]、あわや下半身不随寸前の怪我だったものの、極度の近視となった以外は幸いにも運動能力にはほとんど影響は見られなかった。カカはこれを神のおかげであるとし、十分の一税を行った[18]。なお、本人は「あの事故を契機に人生観が変わった」と語っている[16]。また、事故から4か月後には2001年2月のボダフォゴ戦でサンパウロのトップチームデビューを果たした。途中出場ながら2得点を決める活躍を見せると、以降サンパウロのトップチームに定着する。
ACミラン時代

2003年、880万ユーロ(約12億円)の移籍金でACミランへ移籍。サンパウロでは背番号8番を、2002 FIFAワールドカップでは23番をそれぞれ着けていたが、ミランでは既にジェンナーロ・ガットゥーゾマッシモ・アンブロジーニがそれぞれの背番号を着けていたため、自身の誕生日の日付にちなんで22番を背負うことになった[16]。入団時のメディカルチェックでは特にずば抜けていた加速値と絶対スピードの項目をはじめ、それまでの選手とはかけ離れて高い数値を記録。ミランラボの担当者は「こんな数字は見たことがなかった」と証言した[19]。移籍初年度である2003-04シーズンの開幕戦から驚異的な活躍でスタメンの座を確立し、同シーズンはセリエAで30試合に出場、チームのスクデット(リーグ優勝)、UEFAスーパーカップ獲得に大きく貢献した。

2004-05シーズンはアンドリー・シェフチェンコの後ろの位置でプレーし、36試合で7得点を決めた。この年、UEFAチャンピオンズリーグでは決勝でリヴァプールFCにPK戦で敗れたものの、カカは投票による大会最優秀ミッドフィールダーに選ばれた。イスタンブールの悲劇ともいわれるリヴァプールFC戦の敗北について、「たとえこの先何度優勝できたとしてもあの敗北を忘れることは出来ない」と語っている[16]。また、2004年には国際連合世界食糧計画における最年少大使となった[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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