リオデジャネイロ市
[Wikipedia|▼Menu]
また、ボタフォゴの東のウルカ地区にはリオのシンボルの一つであるポン・ヂ・アスーカルと呼ばれる岩山があり、ロープウェーで頂上まで登ることができる。また、リオデジャネイロのシンボルであるコルコバードのキリスト像はこの南部地区にあるコルコバードの丘の上に立っており、登山電車で登ることができる。
北部地域
北部地域は工業地区や住宅地区から構成され、観光の目玉となる場所はそれほど多くはない。しかしながら、やや南よりには、1950年のワールドカップのために建設され、かつては20万人の収容人員を誇った世界一のサッカースタジアム(現在の収容人員は95000人)エスタジオ・ド・マラカナンがあることで知られる。同スタジアムは、2014年ワールドカップおよび2016年リオデジャネイロオリンピックのメイン会場である。なお、北部地域には、グアナバラ湾に浮かぶいくつかの島も含まれており、主なものとしては、アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港が位置するゴベルナドル島のほか、静寂さが観光客に人気のパケタ島(英語版)などをあげることができる。一般的に、北部地域は経済的にみて比較的貧しい階層が住んでおり、内陸の丘陵地帯にはコンプレクソ・ド・アレマン(スペイン語版)が、沿岸部ではコンプレクソ・ド・マレに代表されるファヴェーラがある。一方、グアナバラ湾対岸のニテロイ市との間までを結ぶリオ・ニテロイ大橋の起点にあたるほか、州西部および北部に向かう幹線道路の通過点にあたるなど交通の要衝的な地位を確保しているのも事実である。
バラ・ダ・チジュカ地域
南部地域の西に隣接し、近年開発が進んでいるエリアである。主に、バラ・ダ・チジュッカ街区とレクレイオ・ドス・バンデイランテス街区から構成される。片側4車線の幅広い道路が東西に伸び、中央では南北方向を結ぶもう一つの幹線道路と交差している。計画的な開発が進められ、高層アパート、大規模ショッピングセンターが立ち並んでいる。2016年オリンピックにおいては、この地区に選手村や会場の多くが建設される予定である。小型機の発着が可能な空港もある。
西部地域
セントロ市域のほぼ西半分を占め、最西端にあるサンタクルス、そこから少し東に行ったところにあるカンポグランデなどが代表的であり、セントロにあるリオデジャネイロ中央駅からサンタクルス駅までは都市近郊鉄道で結ばれている。サンタクルスは日系人が入植した地として知られ、リオデジャネイロ市でも日系人が比較的多いところとして知られる。
ファヴェラ
地域の名前ではなく、不法に立てられた貧民街を「ファヴェーラ」と呼ぶ。主なスラムとしては、レブロン街区の西、ドイスイルマンの山塊(533m)の北西斜面に広がり居住人口がラテンアメリカ最大規模を誇るロシーニャ、バラ・ダ・チジュカ地区の北に隣接し映画『シティ・オブ・ゴッド』(2002年)の舞台となったシダージデデウス、北部地区の内陸のやや標高の高い丘にあり2011年にはスラムの上空をゴンドラリフトが貫通るようになったコンプレクソ・ド・アレマン、北部のグアナバラ湾沿いの湿地帯に広がるコンプレクソ・ド・マレ、コパカバーナ街区の丘に広がるパヴォン・パヴォンジーニョなどがある[4]
歴史1565年のリオデジャネイロの創設を描いた画

1502年1月にポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモスたちがグアナバラ湾の湾口であるこの地に到達。グアナバラ湾は湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し、発見した月に因みポルトガル語で「一月の川」と命名した[5]。ポルトガル人たちは海岸に壁を白く塗った家を建てて住んだ。先住民のトゥピ族(英語版)は彼ら白人を「カリ・オカ」(トゥピー・グゥアラニー語で白い家の意味)と呼んだ。それが現代語のカリオカ(en)の起源である。1555年フランスの植民地開拓者が南極フランス(英語版)居留地をつくったが1567年にこれをポルトガル人は追い出し、18世紀までここに小さなコミュニティをつくっていた。町の名は川(実は湾)の名の転用である。

17世紀までのリオは、砂糖の栽培と製糖工場がある小さな港町にすぎなかった。しかし18世紀前半に内陸のミナスジェライス州周辺で金鉱が発見された。この金の集散地は、当初は金鉱発見者であるバンデイランテスたちの基地であるサンパウロであったが、1725年にリオとミナスジェライスを結ぶ新道が開通すると、距離的に近いリオがサンパウロに代わってミナスのダイアモンドの積出港となり、ブラジル植民地(英語版)の交通と富の中心となった。このためそれまで栄えていた北東部から南東部への重心の移動が生じ、1763年にはブラジル総督がサルヴァドール・ダ・バイーアからリオに移されブラジル植民地(英語版)の首府となった[6]カリオカ水道橋、18世紀前半に建設された

1808年半島戦争の勃発により、リスボンポルトガル宮廷はナポレオン軍を逃れてリオに移転した。翌1809年、リオがポルトガル・ブラジル連合王国の首都となる。これによりリオは人口も増加し、また高い文化を持った移住者たちによって文化も進歩した。1821年には王の帰還と共に首都もリスボンに再遷都されたが、ポルトガルがブラジルの統治に軍を送り込んだためブラジル側の憤激を買い、独立派はリオに残っていた王太子ドン・ペドロを擁立して1822年ブラジル帝国の独立を宣言し、リオはブラジル帝国の首都となった。

1832年4月4日から7月5日まで、ダーウィンの乗ったイギリス海軍のビーグル号が寄港している。ここでダーウィンは奴隷に対する酷い仕打ちを目撃した。このときの深い嫌悪感を終生忘れることがなかった[7]リオデジャネイロの風景
(1825年頃)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:112 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef