ラーメン
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開店当時は手延べ式の麺で、昭和に手打ちとなる[33][34][35]。「来々軒」の流れを受け継ぐ店は、同店で最後に修行した宮葉進が1966年(昭和41年)に千葉市稲毛区に開店した「進来軒」だけである[35][36][37]

1914年(大正3年)には東京市日本橋区茅場町 (現:中央区日本橋茅場町) の「中国料理 大勝軒」が開店、東京に現存する最古のラーメン店とみられる[注 1]

札幌では1922年(大正11年)、現・北海道大学正門前に仙台市出身の元警察官の大久昌治・タツ夫婦が「竹家食堂」を開店[38]。そこで働く山東省出身の料理人王文彩が作る本格的な中華料理が評判となった。常連客の北大医学部教授(後の北大総長)の今裕(こんゆたか)の提案で店名も「支那料理 竹家」に改名[39]。麺作りは初めは手で引っ張り伸ばす手打ち製法だったが、客が増え後に製麺機になった[40]。竹家のラーメンは中華料理の「肉絲麺(ロゥスーミェン)」を原型としたもので、塩味をベースとしており、主に中国人留学生向けの料理であった[41][42]。日本人の嗜好に合うように大久タツが王文彩の後任の料理人の李宏業と李絵堂に相談し、2人は油が濃いラーメンから麺・スープ・具を改良、試行錯誤の末、1926年(大正15年)の夏に醤油味でチャーシューメンマ(シナチク)、ネギをトッピングした現在のラーメンの原形を作り出した[41][43][注 2]。当時、先述の浅草来々軒でもチャーシュー、メンマ、ネギを入れた醤油ラーメンがあり、横浜南京街でも同様ものが出現していたといわれる。各地で現在一般的になったラーメンの基本型ができていった[44][45]

1954年に、長崎ちゃんぽんの白濁スープをヒントに、トンコツスープを濃厚にした白濁トンコツラーメンの「元祖長浜屋」が開業。同時期、東京・荻窪では東京ラーメンの「丸長」や「春木屋」が開店[46]田中角栄日本列島改造論により「地方の時代」が叫ばれるようになった1971年京都で「天下一品」が開店、1974年横浜の「吉村家」が開店し、家系ラーメンが始まる[46]1990年代に入ると、B級グルメに注目が集まり、環七では夜間営業店がしのぎを削る環七ラーメン戦争が起こった[46]。地方の名店が東京に続々進出し始め、時代はご当地ラーメンから、個人の特色を押し出したラーメンに移行し、のれん分けなどで国内外のラーメンブームを形作っていった[46]。2012年Japanese Soba Noodles 蔦(巣鴨)が世界初となるミシュラン一つ星を獲得した。屋台で支那そばを食べる女性、東京上野、昭和31年。

今日のラーメンの普及には、大きく2つの源流が見受けられる。1つは中華街などで中国からの移住者の営む中華料理屋や、戦前の来々軒に始まり戦後は中国や旧満洲国からの引揚者などが開店した日本風の中華料理屋のメニューである。2つは屋台での販売と、その流れを汲む固定店舗を開設したラーメン屋である。中国の居住経験からラーメンの調理法を習得した者が多かったのに加え、安い材料で美味しく栄養のあるラーメンは、物資が乏しい戦後にはうってつけだった。屋台自体は、古くは江戸時代の固定式屋台の夜鳴き蕎麦屋からの風習にのっとり、調理器具を積んで夜間に商売していた。「ドレミーレド、ドレミレドレー」というメロディーをチャルメラで鳴らして流しの移動式屋台で市中を回る光景は昭和30年代まではよくみられた[4][5][47][48]

長年にわたり、庶民の味として親しまれてきたラーメンは、1996年に中華そば青葉が、魚介系と動物系の出汁を合わせるWスープのラーメンを打ち出したのをきっかけに、スープ料理としてのラーメンの価値が見直され、創作ラーメンブームにつながった。スープの出汁、タレ、香味油、煮玉子などのトッピング、麺と、ラーメンのあらゆる要素について新しい試みを行う料理人と店が次々と現れ、当時、普及が始まったインターネットのサイト上でのラーメンの食レポ、TVチャンピオンTXN系列)のラーメン王選手権が輩出した新世代のラーメン評論家、ラーメン特集を組む情報誌やテレビの情報番組、新横浜ラーメン博物館などとの相乗効果もあり、ラーメンの多様化が一気に進んだ。この流れは現在も続いており、ラーメンは日本において最も変化が激しく、多様化された料理形態となっている。

しかし2023年には倒産や休廃業をしたラーメン店が合わせて74件と過去最多となり、ラーメン業界にとっては未曽有の危機となっている[49]
店舗形態京都のラーメン店

専門店の店舗形態としてはカウンターのみ、あるいはテーブルとカウンターからなるものが多い。専門店では味噌や醤油、豚骨などスープの味によって、メニューが区別されていることが多い。特定のスープの味に特化した専門店も多い。ご当地ラーメンなど地域全体で独特なスープや味付け・食材が主流となっている地域も多い。

これらラーメン専門店のラーメンは、麺とスープの製法に各店独自の工夫を凝らすことで様々な個性が生じ、独自の発達を遂げた。特にスープは多くの場合、レシピについて門外不出の「秘伝」とされ、暖簾分けという形での伝授や、法人化した店舗ではチェーン展開による指導などを通じて広まっていった。

チェーン展開やフランチャイズ展開するラーメン店も現れ、これらの店はスープなどは企業秘密のまま本社の工場で生産して、末端店舗は本部から卸されたスープを、本社に決められたレシピ通りに使用するだけ、という形が採られることも多い。この場合、スープは運送に適したように、濃縮状態にされ、一斗缶などの容器に詰められている例もある。独自の屋号で開店していても、スープ、タレ、食材などは他店(他社)から提供を受けている店もある。これは味分けと呼ばれる場合がある[50]

現在では年間6,000軒以上のラーメン屋が開業し、5,000軒以上のラーメン屋が廃業するという凄まじい競争が起こっており、他店と差別化が図れないラーメン屋は、1年と持たず潰れるほどである。
呼称の変遷

日本では明治から昭和初期までは、「南京そば」「支那そば」と一般に呼称されていた[5]。この場合の「南京」は南京町(中華街)南京豆同様に、都市としての南京市というより、「中国の」あるいは「外来の・舶来の」という意味合いである。「支那」は、当時の中国の意味である。

第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)に、中華民国(当時の中国の国名)の名称として、支那という単語の使用自粛が外務省事務次官通達により要請されたことから、『中華そば』という名称が生まれ[51][3]、支那そばに代わって中華そばと一般的に呼称されるようになった[5]

当初は多数派だった「中華そば」に代わって、「ラーメン」という呼称が多数派となったのは、1958年 (昭和33年) に発売された初のインスタントラーメンチキンラーメン」(日清食品)が普及したためといわれている。以降はラーメンと呼称されることが一般的になったが、「中華そば」も引き続き使われている[10][5]おやつカンパニー(当時は松田産業)の「味付中華麺」など、チキンラーメン以前から即席麺は存在していた[52]

「拉麺」も京都拉麺小路や東京拉麺など、使われている。

近年ではラーメンの多様化を受けて、懐古的な意味合いから昔風のラーメンを支那そば、中華そばと呼ぶ店もある。


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