日本への伝播としては、明治時代を迎え神戸や横浜などの港町に中華街が誕生し、そこで提供された南京そばに始まるとされる。横浜の中華街では、1872年(明治5年)に柳麺(lau min、ラウミン)の屋台が出始めていたとされる[32]。1884年(明治17年)に函館新聞(当時)に函館の船場町にある中華料理店養和軒が南京そばを15銭で提供を始める広告を出し、大正の頃まで提供したとされている。証拠が乏しく、当時の関係者も存命ではないため、養和軒の南京そばが今のラーメンと同種の食べ物であると断言できない状況である[5]。来々軒(東京浅草)
1910年(明治43年)に、横浜税関を退職した尾崎貫一が南京町から清人コックをスカウトして、東京の浅草にラーメンをメインにした庶民的な中華料理店「来々軒」を開店。当時の来々軒を写した写真には「廣東支那蕎麦 來々軒」「支那御料理 シナソバ、ワンタン、シウマイ、マンチウ」という看板が写っている。味は醤油出汁で、1杯6銭(2007年現在で約300円相当)と値段も手頃で連日行列ができた。人気は1976年(昭和51年)に閉店するまで続いたという。開店当時は手延べ式の麺で、昭和に手打ちとなる[33][34][35]。「来々軒」の流れを受け継ぐ店は、同店で最後に修行した宮葉進が1966年(昭和41年)に千葉市稲毛区に開店した「進来軒」だけである[35][36][37]。
1914年(大正3年)には東京市日本橋区茅場町 (現:中央区日本橋茅場町) の「中国料理 大勝軒」が開店、東京に現存する最古のラーメン店とみられる[注 1]。
札幌では1922年(大正11年)、現・北海道大学正門前に仙台市出身の元警察官の大久昌治・タツ夫婦が「竹家食堂」を開店[38]。そこで働く山東省出身の料理人王文彩が作る本格的な中華料理が評判となった。常連客の北大医学部教授(後の北大総長)の今裕(こんゆたか)の提案で店名も「支那料理 竹家」に改名[39]。麺作りは初めは手で引っ張り伸ばす手打ち製法だったが、客が増え後に製麺機になった[40]。竹家のラーメンは中華料理の「肉絲麺(ロゥスーミェン)」を原型としたもので、塩味をベースとしており、主に中国人留学生向けの料理であった[41][42]。日本人の嗜好に合うように大久タツが王文彩の後任の料理人の李宏業と李絵堂に相談し、2人は油が濃いラーメンから麺・スープ・具を改良、試行錯誤の末、1926年(大正15年)の夏に醤油味でチャーシュー、メンマ(シナチク)、ネギをトッピングした現在のラーメンの原形を作り出した[41][43][注 2]。当時、先述の浅草来々軒でもチャーシュー、メンマ、ネギを入れた醤油ラーメンがあり、横浜南京街でも同様ものが出現していたといわれる。各地で現在一般的になったラーメンの基本型ができていった[44][45]。
1954年に、長崎ちゃんぽんの白濁スープをヒントに、トンコツスープを濃厚にした白濁トンコツラーメンの「元祖長浜屋」が開業。同時期、東京・荻窪では東京ラーメンの「丸長」や「春木屋」が開店[46]。田中角栄の日本列島改造論により「地方の時代」が叫ばれるようになった1971年、京都で「天下一品」が開店、1974年に横浜の「吉村家」が開店し、家系ラーメンが始まる[46]。1990年代に入ると、B級グルメに注目が集まり、環七では夜間営業店がしのぎを削る環七ラーメン戦争が起こった[46]。