ラーメン
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ただしもともとは2ちゃんねるや個人ブログなどが発祥となる冗談といわれており、テーブルを汚すことにつながるため店側にとっては迷惑な行為であり、実際に行わないことが推奨されることが多い[24]
歴史
沿革

日本で最初に中華麺を食べたのは徳川光圀水戸黄門)であるとする説がある[25]1659年万治2年)にから亡命した儒学者朱舜水水戸藩に招かれた際に、所持品リストに中華麺を作る際に使うものが含まれるから、汁麺を献上したとの記録はないが、作ったのではないかと推測されている。1697年(元禄10年)には、光圀の隠居所である西山荘を訪れた僧や家臣らに中華麺がふるまわれたとの記録もある[26]。この説に基づき復元したものが新横浜ラーメン博物館にある。

一方、相国寺塔頭鹿苑院の蔭涼軒主(当時は亀泉集証)の公式日記『蔭涼軒日録』には、文明17年5月17日(1485年6月29日)に南宋末期から初期頃に書かれた『居家必要事類』という書物で「水滑麺、索麺、経帯麺、托掌麺、紅絲麺、翠縷麺」等の麺食品の調理法を調べ[27]長享2年(1488年)2月1日(3月14日)と5月16日(6月25日)に「経帯麺」という料理を調理して蔭涼軒への来客に振舞ったという記述がある[28][29]ことが、2017年平成29年)に判明した[30][31]。この「経帯麺」は材料として小麦粉とかん水を使うことも書かれており、日本初のラーメンである可能性が示されている。

日本への伝播としては、明治時代を迎え神戸横浜などの港町に中華街が誕生し、そこで提供された南京そばに始まるとされる。横浜の中華街では、1872年明治5年)に柳麺(lau min、ラウミン)の屋台が出始めていたとされる[32]1884年(明治17年)に函館新聞(当時)に函館の船場町にある中華料理店養和軒が南京そばを15銭で提供を始める広告を出し、大正の頃まで提供したとされている。証拠が乏しく、当時の関係者も存命ではないため、養和軒の南京そばが今のラーメンと同種の食べ物であると断言できない状況である[5]来々軒(東京浅草)

1910年(明治43年)に、横浜税関を退職した尾崎貫一が南京町から人コックをスカウトして、東京浅草にラーメンをメインにした庶民的な中華料理店「来々軒」を開店。当時の来々軒を写した写真には「廣東支那蕎麦 來々軒」「支那御料理 シナソバ、ワンタン、シウマイ、マンチウ」という看板が写っている。味は醤油出汁で、1杯6銭(2007年現在で約300円相当)と値段も手頃で連日行列ができた。人気は1976年(昭和51年)に閉店するまで続いたという。開店当時は手延べ式の麺で、昭和に手打ちとなる[33][34][35]。「来々軒」の流れを受け継ぐ店は、同店で最後に修行した宮葉進が1966年(昭和41年)に千葉市稲毛区に開店した「進来軒」だけである[35][36][37]

1914年(大正3年)には東京市日本橋区茅場町 (現:中央区日本橋茅場町) の「中国料理 大勝軒」が開店、東京に現存する最古のラーメン店とみられる[注 1]

札幌では1922年(大正11年)、現・北海道大学正門前に仙台市出身の元警察官の大久昌治・タツ夫婦が「竹家食堂」を開店[38]。そこで働く山東省出身の料理人王文彩が作る本格的な中華料理が評判となった。常連客の北大医学部教授(後の北大総長)の今裕(こんゆたか)の提案で店名も「支那料理 竹家」に改名[39]。麺作りは初めは手で引っ張り伸ばす手打ち製法だったが、客が増え後に製麺機になった[40]。竹家のラーメンは中華料理の「肉絲麺(ロゥスーミェン)」を原型としたもので、塩味をベースとしており、主に中国人留学生向けの料理であった[41][42]。日本人の嗜好に合うように大久タツが王文彩の後任の料理人の李宏業と李絵堂に相談し、2人は油が濃いラーメンから麺・スープ・具を改良、試行錯誤の末、1926年(大正15年)の夏に醤油味でチャーシューメンマ(シナチク)、ネギをトッピングした現在のラーメンの原形を作り出した[41][43][注 2]。当時、先述の浅草来々軒でもチャーシュー、メンマ、ネギを入れた醤油ラーメンがあり、横浜南京街でも同様ものが出現していたといわれる。各地で現在一般的になったラーメンの基本型ができていった[44][45]

1954年に、長崎ちゃんぽんの白濁スープをヒントに、トンコツスープを濃厚にした白濁トンコツラーメンの「元祖長浜屋」が開業。同時期、東京・荻窪では東京ラーメンの「丸長」や「春木屋」が開店[46]田中角栄日本列島改造論により「地方の時代」が叫ばれるようになった1971年京都で「天下一品」が開店、1974年横浜の「吉村家」が開店し、家系ラーメンが始まる[46]1990年代に入ると、B級グルメに注目が集まり、環七では夜間営業店がしのぎを削る環七ラーメン戦争が起こった[46]。地方の名店が東京に続々進出し始め、時代はご当地ラーメンから、個人の特色を押し出したラーメンに移行し、のれん分けなどで国内外のラーメンブームを形作っていった[46]。2012年Japanese Soba Noodles 蔦(巣鴨)が世界初となるミシュラン一つ星を獲得した。屋台で支那そばを食べる女性、東京上野、昭和31年。

今日のラーメンの普及には、大きく2つの源流が見受けられる。1つは中華街などで中国からの移住者の営む中華料理屋や、戦前の来々軒に始まり戦後は中国や旧満洲国からの引揚者などが開店した日本風の中華料理屋のメニューである。2つは屋台での販売と、その流れを汲む固定店舗を開設したラーメン屋である。中国の居住経験からラーメンの調理法を習得した者が多かったのに加え、安い材料で美味しく栄養のあるラーメンは、物資が乏しい戦後にはうってつけだった。屋台自体は、古くは江戸時代の固定式屋台の夜鳴き蕎麦屋からの風習にのっとり、調理器具を積んで夜間に商売していた。「ドレミーレド、ドレミレドレー」というメロディーをチャルメラで鳴らして流しの移動式屋台で市中を回る光景は昭和30年代まではよくみられた[4][5][47][48]

長年にわたり、庶民の味として親しまれてきたラーメンは、1996年に中華そば青葉が、魚介系と動物系の出汁を合わせるWスープのラーメンを打ち出したのをきっかけに、スープ料理としてのラーメンの価値が見直され、創作ラーメンブームにつながった。スープの出汁、タレ、香味油、煮玉子などのトッピング、麺と、ラーメンのあらゆる要素について新しい試みを行う料理人と店が次々と現れ、当時、普及が始まったインターネットのサイト上でのラーメンの食レポ、TVチャンピオンTXN系列)のラーメン王選手権が輩出した新世代のラーメン評論家、ラーメン特集を組む情報誌やテレビの情報番組、新横浜ラーメン博物館などとの相乗効果もあり、ラーメンの多様化が一気に進んだ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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