片桐は大学デビューに必死で、小林の目から見ても周りで一番面白い人間に写っていた[10][19]。引け目からキャラが強くクラスの人気者である片桐を誘えずにいた小林だったが、別の相方を探している内に自分にないものを持っている片桐が適任だという思いが強くなり、大学3年時にコンビ結成となった[19][10][20]。在学時の多摩美術大学にはお笑いサークルが存在せず、活動を停止していた落語研究会を復活させる形で落語をしない「オチケン」というサークルを自分たちで作っている[10][注釈 1]。
1990年中頃に田辺エージェンシー主催の大学対抗のお笑い選手権が開催されており、4年次の第2回大会に出場を希望したが既に参加が締め切られていた[21][22]。担当者に審査対象外としてネタを見てもらったところ、冗談リーグという若手ライブに出演することになった[15][23][24]。その後田辺エージェンシーに所属することになり第3回大会に出場しているが、関東大会のベスト8で敗退している[25][1][注釈 2][注釈 3]。 コンビ名は大学対抗戦に出場するためにとりあえずつけたもので、ある日小林がラーメン屋から電話をかけてきて「ラーメンズはどう?」と提案したことで決定した[15][27]。由来は後付けの適当なものであり、ファンからドイツ語のラーメンから来ているのではという質問に嘘で肯定したり、ラーメンの仕事が来るかもしれないという安易な理由もあった[27]。コンビとしての活動が定まるまでは頻繁にコンビ名を変えていて、一番最初に付けたコンビ名は大学の同級生であるニイルセンに便乗した「ニイルセンズ」というものであった[28]。 活動初期は片桐がボケで小林がツッコミを担当する漫才スタイルで、差別ネタや下ネタも扱っていた[19][27]。売れない時期はライブでもウケず、コンビ仲が悪い期間もあった[27]。1997年末のバナナマンとの出会いを通して、裏をかくような笑い場所や演技の巧みさに刺激を受けて、ラーメンズをもう少し頑張ってみようという気持ちになった[27]。 オークラによると、漫才もやっていたスタイルが確立される前のラーメンズは印象が薄かったが、1998年3月のライブでスタイルを見つけたラーメンズの変貌ぶりにオークラは驚いており、「できるかな」のパロディコントについてバナナマンを初めて見た時の衝撃と同等に語っている[29][30][31]。スタイルがコントになると「日本語学校」のネタなどでオーディションにも受かるようになっていき、ライブシーンでシュールなお笑いが流行すると赤坂お笑いD・O・J・Oで頭角を現し、毎月の事務所ライブでも目当ての観客で満員になっていった[27][32][33]。 1998年6月末に第1回の単独公演「箱式」が行われた[34]。シアターDの支配人であった矢野Jr.より片桐へ単独公演の打診があり、小林も前向きな姿勢を見せていたため開催はすぐに決まった[34]。小林は既に出来上がった10本のネタでライブに臨もうとしていたが、「単独公演用の新ネタを作るべき」という設楽統のアドバイスから全て新ネタで構成された[35]。
コンビ名
活動初期