ラーマ9世
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崩御から約1年後の2017年10月26日(現地時刻)、バンコクの王宮前広場に設置された施設で火葬儀式が行われ、荼毘に付された[10]

タイ政府は同年10月29日を以て服喪期間が終了したことを宣言するとともに、火葬を執り行った施設を同年11月2日?30日に一般公開した[11]。一般公開はその後、同年の12月31日まで延長された[12]
子女

シリキット王妃との間に1男3女がいる。1972年ワチラーロンコーン王子へ、1975年シリントーン王女へそれぞれ王位継承権が贈られている。

続柄名前生年月日没年月日備考
第1王女
(第1子・長女)ウボンラット1951年4月5日存命中(73歳)1972年にピーター・ラッド・ジェンセンと結婚。1998年に離婚。
子女:1男2女(3人)
第1王子
(第2子・長男)ワチラーロンコーン1952年7月28日存命中(71歳)チャクリー王朝第10代国王『ラーマ10世』
1977年にソームサワリーと結婚。1991年に離婚。
1994年にスチャーリニーと再婚。1996年に離婚。
2001年にシーラットと再婚。2014年に離婚。
2019年にスティダーと再婚。
子女:5男2女(7人)
第2王女
(第3子・次女)シリントーン1955年4月2日存命中(69歳)テープラッタナラーチャスダー公
子女:無し
第3王女
(第4子・三女)チュラポーン1957年7月4日存命中(66歳)スリーサワーンカワット公
1982年にウィーラュット・ディットヤサリンと結婚。1994年に離婚。
子女:2女(2人)

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国民からの敬愛チェンマイ市内に置かれた誕生日を祝う肖像画

「王室プロジェクト」と呼ばれる農業を始めとする地方経済の活性化プログラムを自ら指導する他、自ら土地改革運動のために王室の所有地を提供したり、農村開発や旱魃対策の人工雨等の各種王室プロジェクトを推進している。また、王妃と共に地方視察も非常に精力的に行い、泥濘や雨天の中でも人々の輪の中に積極的に入っていくなど国民に近い立場を取り続けることから、確実にタイ国民の尊敬と信頼を勝ち得た。実際に、毎年誕生日前になると全国各地に肖像画が飾られ、国王の色とされる黄色いシャツ[注 9]を着用した市民で埋め尽くされるほどである。また、高齢による病気で入院すると病院の周りには健康と長寿を意味する色であるピンク色の服を着た人々があつまり、国王の病気平癒を祈り続けた。そして2016年10月13日に崩御した翌日には黒い服を自発的に着用する多数の国民の姿がバンコク都内で見られた。

治世の間は既項国王時代にある通り動静は変遷している。即位から1960年代前半期までの期間、国民の上に立つ象徴として若年期については、サリット独裁政権は悪化した治安改善に強権発動と同時に王室を崇めるキャンペーンを進め、そこには朝鮮戦争以降の世界情勢から共産主義対抗の政治利用が進められたことも影響しているという意見のある一方、1970年代以降市民集団を伴うクーデターでは表に立って行動し軍事内閣と市民運動の仲裁している。このうち、1973年10月14日のタノーム(Thanom Kittikachorn)政権へ民主化を求めた学生決起の介入(血の日曜日事件、タノーム政権崩壊)、1976年10月6日血の水曜日事件(またはタンマサート大学虐殺事件 Thammasat University massacre)の動向[13]、「暗黒の5月事件」など、事件の背景要素や過程が詳らかではない問題点が多く当時の世界情勢を鑑みた検証作業にゆだねられる。定期的な公式の談話や発言も数多く、非常時のプノンペン・タイ大使館焼き討ち事件のほか、平時に於いては政治や経済の言及はほぼ無く国民に向けては時節や生活について触れ、治安面では一例で1970年代前半加熱する学生運動の呼びかけた「贅沢品不買運動」、「日本製品不買運動」などが煽動的過激な展開を見せた際には「デモ運動に用いるハンドスピーカーは日本製、警備にあたるパトカーは日本車。(略記)」と、現実を指摘して運動の矛盾と学生の行き過ぎた主張と行動を窘める発言を残している。即位から人格への批判言及は皆無に等しく、政府の王室関係への言論統制[注 10]を考慮しても、清廉な人柄と様々な功績が評価され国民の自発的な尊敬を集めている事実は揺るぎない。その人物像についてタイ国民への世論調査、「暗黒の5月事件」政変の際に当事者と引見し、憂慮の様子が報道されるなどして、国内外から高く賞賛されている[注 11]

広くタイ国民からの敬愛を受け続けているが、反王制派思想(君主制廃止論[注 12]やアジア人に対する侮蔑的感情を持つ外国人等による批判を受けることもあり、たとえ自国民でなくても不敬罪を以って処される。2007年に国王のポスターに黒ペンキを塗布したスイス人男性には禁固10年(最高刑は75年)[注 13]、著書で王室を批判したオーストラリア人男性が2009年1月に懲役3年の実刑判決を受けたケースがある[注 14]。また海外で出版された書籍の執筆者がタイ国内に長期滞在していたために不敬罪に問われたケースもある[注 15]。しかしながら諸外国の政府や国民からの評価は高く、NHKラジオ深夜便』の海外レポートコーナーなどで紹介する際も、「(タイ国民が)敬愛するプミポン国王」という表現が使われることが多い。
日本との関係

共に長きに亘ってアジアにおける数少ない独立国であり続け、共に君主制を採り続けてきたタイの王室と日本皇室は歴史的に縁が深い。

ラーマ9世の在位中のタイの王室と日本の皇室の交流は以下の通り。

1963年5月 - ラーマ9世初来日。当時の皇居仮宮殿で昭和天皇と会談。宮中晩餐会も。

1964年 - 昭和天皇の名代として、皇太子明仁親王同妃美智子がタイを答礼訪問。ラーマ9世に拝謁。

1989年2月 - ワチラーロンコーン王太子、昭和天皇大喪の礼に参列のために来日。

1990年6月 - シリントーン王女、秋篠宮文仁親王結婚の儀に参列のため来日。

1991年 - 明仁天皇と美智子皇后(いずれも当時)、即位後最初の外遊でタイを訪問。ラーマ9世、シリキット王妃と会見。

2000年 - シリントーン王女、香淳皇后葬場殿の儀に参列のために来日。

2006年 - 「ラーマ9世在位60年記念式典」に明仁天皇、美智子皇后(いずれも当時)がタイを訪問。

2016年10月 - 明仁天皇、ラーマ9世崩御に際しシリキット王妃とタイ政府に弔電。河相周夫侍従長勅使として、品川区上大崎の駐日本国タイ王国大使館に遣わす[14]。「お気持ち」として3日間服喪

2017年 - 明仁天皇と美智子皇后(いずれも当時)、ベトナム訪問の帰途、タイを訪れ弔問。王宮に安置されているラーマ9世の棺に拝礼し、アンポンサターン宮殿でラーマ10世新国王と会見。

また、タイ王国を公式、非公式で訪れることの多い秋篠宮文仁親王を「我が子と同様」であるとして、懇意にしており[15]、2017年10月にバンコクで行われた火葬式では親王夫妻が参列している[10]

一方、シリントーン王女は、公式・非公式を含めて8度来日している。

日本製品を日常に数多く使用することでも知られ、一時期は王宮内の移動用に日本車であるホンダ・アコードを3代に亘り使用していたほか、キヤノン製の一眼レフカメラを長年愛用していた。


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