ラーマ9世
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2012年5月に一時退院し、アユタヤ県の洪水対策工事の親覧に行幸し健在をアピールした[6]が、その後は高齢のため普段はフワヒンにあるクライカンウォン宮殿に居し、公務の数を減らしていた。2014年に、軍部によるクーデターが再度発生。詳細は「タイ軍事クーデター (2014年)」を参照

2016年6月9日は在位70年を迎え、存命中の最も在位年数の長い君主となった[7]。在位70年を祝う記念行事が執り行われたが、国王本人は入院中であった。入院している病院の周りには、タイでは健康と長寿を意味する色であるピンク色の服を着た人々が集まりを手を合わせ、御真影を掲げ、国王の平癒を祈るようになっていった。同年10月9日夜、タイ政府は国王の容態が不安定だという声明を発表。タイ全国民に緊張がはしった。その当時は、プミポン国王の病院の前には、国王を心配する国民で埋め尽くされていた。
崩御詳細は「en:Death and funeral of Bhumibol Adulyadej」および「en:Reactions to the death of Bhumibol Adulyadej」を参照国防省の建物に掲げられた半旗。(2016年10月28日、バンコク)

2016年10月13日午後3時52分(現地時刻)、入院していたシリラート病院で崩御。88歳没。在位期間は70年4か月。歴史上で見ても稀にみる長い期間王位に就いている国王であった[8][1][2]。近代以降、他に在位期間の長い君主は、スワジランドソブーザ2世(在位82年254日間)、オーストリアフランツ・ヨーゼフ1世(在位67年11か月)、イギリスエリザベス2世(在位70年7か月)とヴィクトリア女王(在位63年7か月)、日本の昭和天皇(在位62年+摂政宮5年)などがいる。

崩御を受けて、タイ首相府より下記の発表がされた[9]
全ての公的な場所、国営企業、政府関係機関及び教育機関は、10月14日より30日間半旗を掲揚する。

全ての公務員及び国営企業従業員、政府機関職員は、10月14日より1年間に服す。

一般国民は、適切な行動を考えて行動すること。

崩御を受けて、タイ王国の人々は、喪の表明として「黒い服」を着ていた。また、各国の駐タイ王国大使館タイ国政府観光庁タイ国際航空BECワールドオーソーモートーなどのウェブサイトはモノクロ、グレースケールに改められたほか、タイ人の利用が多いLINEもモノクロになった。
国葬

崩御から約1年後の2017年10月26日(現地時刻)、バンコクの王宮前広場に設置された施設で火葬儀式が行われ、荼毘に付された[10]

タイ政府は同年10月29日を以て服喪期間が終了したことを宣言するとともに、火葬を執り行った施設を同年11月2日?30日に一般公開した[11]。一般公開はその後、同年の12月31日まで延長された[12]
子女

シリキット王妃との間に1男3女がいる。1972年ワチラーロンコーン王子へ、1975年シリントーン王女へそれぞれ王位継承権が贈られている。

続柄名前生年月日没年月日備考
第1王女
(第1子・長女)ウボンラット1951年4月5日存命中(73歳)1972年にピーター・ラッド・ジェンセンと結婚。1998年に離婚。
子女:1男2女(3人)
第1王子
(第2子・長男)ワチラーロンコーン1952年7月28日存命中(71歳)チャクリー王朝第10代国王『ラーマ10世』
1977年にソームサワリーと結婚。1991年に離婚。
1994年にスチャーリニーと再婚。1996年に離婚。
2001年にシーラットと再婚。2014年に離婚。
2019年にスティダーと再婚。
子女:5男2女(7人)
第2王女
(第3子・次女)シリントーン1955年4月2日存命中(69歳)テープラッタナラーチャスダー公
子女:無し
第3王女
(第4子・三女)チュラポーン1957年7月4日存命中(66歳)スリーサワーンカワット公
1982年にウィーラュット・ディットヤサリンと結婚。1994年に離婚。
子女:2女(2人)

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国民からの敬愛チェンマイ市内に置かれた誕生日を祝う肖像画

「王室プロジェクト」と呼ばれる農業を始めとする地方経済の活性化プログラムを自ら指導する他、自ら土地改革運動のために王室の所有地を提供したり、農村開発や旱魃対策の人工雨等の各種王室プロジェクトを推進している。また、王妃と共に地方視察も非常に精力的に行い、泥濘や雨天の中でも人々の輪の中に積極的に入っていくなど国民に近い立場を取り続けることから、確実にタイ国民の尊敬と信頼を勝ち得た。実際に、毎年誕生日前になると全国各地に肖像画が飾られ、国王の色とされる黄色いシャツ[注 9]を着用した市民で埋め尽くされるほどである。また、高齢による病気で入院すると病院の周りには健康と長寿を意味する色であるピンク色の服を着た人々があつまり、国王の病気平癒を祈り続けた。そして2016年10月13日に崩御した翌日には黒い服を自発的に着用する多数の国民の姿がバンコク都内で見られた。

治世の間は既項国王時代にある通り動静は変遷している。即位から1960年代前半期までの期間、国民の上に立つ象徴として若年期については、サリット独裁政権は悪化した治安改善に強権発動と同時に王室を崇めるキャンペーンを進め、そこには朝鮮戦争以降の世界情勢から共産主義対抗の政治利用が進められたことも影響しているという意見のある一方、1970年代以降市民集団を伴うクーデターでは表に立って行動し軍事内閣と市民運動の仲裁している。このうち、1973年10月14日のタノーム(Thanom Kittikachorn)政権へ民主化を求めた学生決起の介入(血の日曜日事件、タノーム政権崩壊)、1976年10月6日血の水曜日事件(またはタンマサート大学虐殺事件 Thammasat University massacre)の動向[13]、「暗黒の5月事件」など、事件の背景要素や過程が詳らかではない問題点が多く当時の世界情勢を鑑みた検証作業にゆだねられる。定期的な公式の談話や発言も数多く、非常時のプノンペン・タイ大使館焼き討ち事件のほか、平時に於いては政治や経済の言及はほぼ無く国民に向けては時節や生活について触れ、治安面では一例で1970年代前半加熱する学生運動の呼びかけた「贅沢品不買運動」、「日本製品不買運動」などが煽動的過激な展開を見せた際には「デモ運動に用いるハンドスピーカーは日本製、警備にあたるパトカーは日本車。(略記)」と、現実を指摘して運動の矛盾と学生の行き過ぎた主張と行動を窘める発言を残している。即位から人格への批判言及は皆無に等しく、政府の王室関係への言論統制[注 10]を考慮しても、清廉な人柄と様々な功績が評価され国民の自発的な尊敬を集めている事実は揺るぎない。その人物像についてタイ国民への世論調査、「暗黒の5月事件」政変の際に当事者と引見し、憂慮の様子が報道されるなどして、国内外から高く賞賛されている[注 11]

広くタイ国民からの敬愛を受け続けているが、反王制派思想(君主制廃止論[注 12]やアジア人に対する侮蔑的感情を持つ外国人等による批判を受けることもあり、たとえ自国民でなくても不敬罪を以って処される。2007年に国王のポスターに黒ペンキを塗布したスイス人男性には禁固10年(最高刑は75年)[注 13]、著書で王室を批判したオーストラリア人男性が2009年1月に懲役3年の実刑判決を受けたケースがある[注 14]


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