ランバル公妃マリー・ルイーズ
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ランバル公妃を王妃に仕立てるアデライードの計画はノアイユ家一族の支持も得た[4]。しかしランバル公妃も舅のパンティエーヴル公も全く乗り気でなかった上に、計画は少しも前進しなかった[4]。首席国務大臣ショワズール一派が、新しい王妃が権力を握ればルイ15世が黙認する自分たちの政治不正を糾弾する可能性があるのを恐れ、ルイ15世の再婚そのものに強く反対していたからである[5]
王妃との友情

パンティエーヴル公一家は庶子の血筋のため傍系王族が持つ血統親王(プランス・デュ・サン(英語版))の身分こそ無かったものの、一家は王室の末席に位置付けられていたので、ランバル公妃も王室の儀式や催事に王族として参加した。1770年に王太子妃マリー・アントワネットがフランスへ輿入れしたときも、義父及び他の傍系王族たちと一緒にコンピエーニュの森で王太子妃に歓迎の挨拶をした。翌1771年の年明け、王太子妃の名前で女官長ノアイユ伯爵夫人(英語版)が主催した宮廷の舞踏会に顔を出した際、幼い王太子妃は公妃の人並外れた愛情深さと感じやすさに圧倒され、公妃に魅了されたという。駐仏オーストリア大使メルシーは1771年3月に次のように報告している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}王太子妃はこのところ幾度かランバル公妃に大変なご厚情を示されております…この若い公女は心優しく気立ての良い方で、王族と同じ待遇を許されるご身分ですので、王太子妃殿下のご友人となるのに相応しいでしょう[4]

フランスの官報『ラ・ガゼット(英語版)』は、宮殿の礼拝堂で行われる国王一家の聖木曜日のミサに、ブルボン公及びパンティエーヴル公とともに、ランバル公妃も参加者として名を連ねたことを記録している。1771年5月、同族の従姪プロヴァンス伯爵夫人マリー=ジョゼフィーヌが、輿入れ後初めてフォンテーヌブロー宮殿で国王に謁見した際には、謁見後の晩餐会に出席した。1773年11月にはその妹のマリー=テレーズもアルトワ伯爵夫人としてフランス王室入りした。マリー・アントワネットの2人の義弟がランバル公妃の従姪と次々に結婚した結果、公妃は王太子妃に縁戚として遇される立場となった。また、輿入れした当初の王太子妃はプロヴァンス伯爵夫妻及びアルトワ伯爵夫妻と友人サークルを作っていたため、その輪には両伯爵夫人の同族ランバル公妃も引き込まれ、結果、王太子妃の側にはほとんど常にランバル公妃がいるようになった[4]

マリー・アントワネットは1774年5月、夫の即位に伴い王妃となった。メルシー大使は、マリー・アントワネットがランバル公妃に抱く親愛の情は、彼女が王妃となってから、以前にも増して注目されるようになったと指摘した。王后陛下はずっとランバル公妃の部屋に入り浸っておられます…公妃は心優しく非常に誠実な人柄でいらっしゃり、陰謀やそうした諸々の懸念を抱かせるようなところは何一つありません。王妃様は時としてこの若い公女に心からの友情をお示しになりますが、[この友人の]選択は素晴らしいものと言えます。同じピエモンテの姫君とはいえ、ランバル夫人はプロヴァンス・アルトワ両伯爵夫人の野心とは全く無関係でいらっしゃいます。とはいえ王妃様には、宮廷の人々の非難を受けないためにも、ランバル公妃へのいくぶん過度な寵愛と親切は、慎むべきであるとご注進申し上げておきました[4]

王妃の母マリア・テレジア皇太后は、君主の側近に侍る寵臣や友人というものを容認しなかったために、娘とその新しい友人の交遊に腹を立てていた。もし娘に親しい友が必要な場合、身分のことを考慮すればランバル公妃はその立場に相応しいことを理解していたにもかかわらず、である[4]。皇太后は、サヴォイア家出身のランバル公妃が実家の政治的利益のために王妃を利用するのではないかとも心配し、2人の友情を断ち切ろうとした。マリー・アントワネットは王妃となった1774年に夫の国王ルイ16世に対し、「ああムッシュー、ランバル公妃との友情は私の生き甲斐なのです」と吐露した[4]。ルイ16世も妻とランバル公妃との友人関係に賛同していたようである。

ランバル公妃は気位が高く繊細で神経質な女性で、謀りごとをする野心もない代わりに機知も持たなかった。容姿はアンバランスな顔立ちだが美人ではあると言われた。王妃を楽しませることができたが、生来引っ込み思案だったため、上流社交界の中心に立つよりも王妃と2人きりで過ごすことを好んだ。公妃は宮廷では身持ちが固いことで有名だった[4]。しかし当時の反君主主義的な民衆プロパガンダは、王政のイメージを傷つけるために、ポルノ色の強い中傷パンフレットの中で、ランバル公妃を王妃のレズビアンの恋人の1人として描いた[6]
王妃家政機関総監ランバル公妃、ルモワーヌ画、1779年

1775年9月18日、王妃はランバル公妃を、ヴェルサイユの宮廷女官の最高官職である王妃家政機関総監(シュランタンダント・ド・ラ・メゾン・ド・ラ・レーヌ(英語版))に任命した。この人事は紛糾を引き起こした。総監職は俸給額が飛びぬけて高額で、権限と影響力も他の女官を圧倒するほど強大であり、例えば他の女官の出した命令は総監の指示で撤回可能であった。そのため1741年以来、34年間にわたり空席となっていた。王妃は友情に報いたい一心から任命したのだが、ベテランの宮廷女官たちは、ランバル公妃は総監に就任するには身分こそ申し分ないが、若く経験も無いとして、この任命に憤慨した[4]

王妃の生活に関する全決定についての事前の確認と承認、王妃の許に届く全ての書状・嘆願書・覚書のチェックと仕分け、そして王妃の名の下に晩餐会や舞踏会を主催し貴族たちをもてなすことが、総監の職務だった。総監職は宮廷の序列において極めて高い上席権を伴ったことも、宮廷の多くの人々の羨望と嫉視を呼び起こした。総監職の俸給は年額15万リーヴルと莫大だったが、国家財政が逼迫していた上にランバル公妃は大富豪であるため、財務総監テュルゴーは公妃に俸給の減額の承認を求めた。しかし公妃は総監を引き受けるならば歴代の前任者と同じ待遇を要求するとし、通らなければ辞退すると宣言したため、王妃の求めにより総監の俸給には従来通りの額が設定された。ランバル公妃、ヴィジェ=ルブラン画、ヴェルサイユ宮殿美術館蔵、1782年

この就任時のいざこざは公妃に対する世間の印象を非常に悪くする結果となり、大衆向けの刊行物はランバル公妃を王妃の欲深い寵臣と書き立てた。公妃は神経過敏、ひきつけ、失神などの症状に悩んでおり、失神すると何時間も意識を失うこともあったのだが[4]、庶民たちは公妃の失神する様子を真似して、彼女を揶揄した[4]。彼女の寵臣としての立場は広く国民に膾炙し、公妃が暇をもらって田舎に出かければ、行く先々で王族並みの歓待を受け、彼女に詩が献呈されることもあった。

総監となったランバル公妃は仲の良い弟のヴィラフランカ伯エウジェーニオをヴェルサイユに呼び寄せた。王妃は親友の弟であるヴィラフランカ伯に高収入なフランス軍の連隊長職を与えた。

公妃はまた、亡夫の妹アデライードの夫シャルトル公がポワトゥー州知事(フランス語版)に任命されるよう王妃に働きかけた[4]。公妃はシャルトル公爵夫妻と親しく、夫妻の長男ヴァロワ公の誕生にも立ち会っている。フランス・フリーメーソンのグランドマスターを務めていたシャルトル公との友人関係から、ランバル公妃は1777年、シャルトル公爵夫人と共にフリーメーソンの女性組織サン・ジャン・ド・ラ・カンデュール・ロッジの会員となった。次いで1781年1月公妃はアドプション系諸ロッジの最高責任者であるスコットランド・ロッジのグランド・ミストレスに就任した[4]。公妃は1788年、義妹オルレアン公爵夫人(もとのシャルトル公爵夫人)と共に、彼女の夫オルレアン公(もとのシャルトル公)が国王の決定に反抗して地方に追放された件について、高等法院の評定官たちに同調して、オルレアン公の追放処分の解除を求めている[4]


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