1886年7月の総選挙(英語版)で激しいグラッドストン政権批判を行って保守党の勝利に貢献した。8月に第2次ソールズベリー侯爵内閣が発足するとその大蔵大臣・庶民院院内総務となったが、軍事費削減を予算案に盛り込もうとしたことで首相ソールズベリー侯爵と対立を深め、12月には内閣を追われた(→第二次ソールズベリー侯内閣の蔵相)。
その後は政界の中枢に返り咲くことなく、梅毒となって全身麻痺となり、1895年には死去した(→晩年と死去)。
ディズレーリに憧れて「トーリーデモクラシー」「労働者階級保守主義」といった理念を吹聴し、機知や毒舌を持った政治家であったが、ディズレーリに比べると真剣さが足らず、保守党内における不可欠性が劣った。性格は短気で衝動的であり、コンプレックスが強かった。また酒乱であった(→人物)。 1849年2月13日にロンドンに生まれる。父は後に第7代マールバラ公爵となるブランドフォード侯爵ジョン・ウィンストン・スペンサー=チャーチル。母はその夫人で第3代ロンドンデリー侯爵チャールズ・ヴェーンの娘であるフランセス・アン
生涯
生誕
ランドルフは夫妻の三男であり、長兄にサンダーランド伯爵ジョージ(1844年-1892年)、次兄にフレデリック卿(1846年-1850年)がいたが、次兄は早世している[7][6]。
祖父である第6代マールバラ公爵ジョージは奇行が多い人物だった。とりわけ偽装結婚をして危うく重婚罪に問われかけた件でマールバラ公爵家の家名は泥にまみれ、貴族社会から除け者にされていた[8]。家名回復を図らねばならない時期だったが、結果的にはランドルフ卿とその兄の傍若無人さのせいで家名はさらに堕ちることになる[9]。
ランドルフ卿が8歳の頃に祖父が死去し、父が第7代マールバラ公爵位を継承した[10]。
政界入りまで1860年代のランドルフ・チャーチル卿
1863年1月にイートン校に入学したが[6]、校内では上唇の太さ、出目、犬のチンに似た顔などが原因でからかわれた。あだ名は「グースベリ・チャーチル」だった。嘲笑に屈しないため、弁論術を磨いて後の毒舌を身に付けた[7]。平民出身者を心より軽蔑するようになり、その毒舌は主として自分より身分の低い者にばかり向けられた[11]。
1867年10月にオックスフォード大学マートン・カレッジへ進学した[6]。大学時代は狩猟にはまっていた[7]。
1870年に大学を卒業した後の4年間、マールバラ公爵家の居城ブレナム宮殿で狩猟をして過ごした[6]。1871年2月9日に兄ブランドフォード侯とともにフリーメイソンのチャーチル・ロッジ(Churchill Lodge)に加入している[12]。
1873年8月12日にイギリス商船上の舞踏会でパリ在住のアメリカ人投機家レナード・ジェロームの娘ジャネット・ジェロームと知り合った。美人のジェロームがたまたまランドルフに微笑みかけたことでランドルフはすっかり一目ぼれした。ランドルフはダンスが下手だったのでジェロームと二人きりで話をする状況に持ち込んだ。ランドルフの動作は不器用でぎこちなく、しゃべることは独り善がりの貴族主義だったが、ジェロームは貴族の傲慢さには慣れていたので特に不快には感じなかったという。それよりこの独善ぶりではいつか挫折して傷付く時が来ると思ってランドルフを守りたいと思ったという[10]。この時の出会いから二人は瞬く間に恋仲となり、ランドルフは3日後にはジェロームにプロポーズしたという[13]。
しかし父マールバラ公爵はジャネットの父レナードのことを「胡散臭いニューヨークの投機家」と看做しており、結婚に強く反対した[14]。だが二人の意思は固く、マールバラ公爵もついに諦めた。その代わりにマールバラ公爵はレナードから大金を無心した(当時マールバラ公爵家はかなり家計がひっ迫していた)[15]。
こうして二人は1874年4月15日にパリのイギリス大使館で結婚式を挙げることになった[13][16]。11月には長男ウィンストンが生まれた[13]。 結婚式の少し前の1874年1月から2月に解散総選挙
庶民院議員に初当選
演説に自信がなかったため、カンニングペーパーを作ってシルクハットの中に隠してそれを読み上げていた[17]。マールバラ公爵家が圧倒的に強い影響力を持つ選挙区ではあるが、それでも不安を感じていた父マールバラ公爵は酒場を貸し切って、息子に投票することを約束してくれた有権者に無料で酒をふるまうなど工作活動に励んだ[17]。
こうした努力の甲斐あって、選挙の結果、ランドルフ卿は庶民院議員に初当選した[17]。
皇太子との対立皇太子バーティ(後のエドワード7世)
1876年、長兄ブランドフォード侯爵ジョージが皇太子アルバート・エドワード(愛称バーティ、後の英国王エドワード7世)の愛人だったエイルズフォード伯爵(英語版)夫人と愛人関係になった。