ランス・アームストロング
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しかしシーズン中盤以降はツール・ド・フランスを途中棄権したほか、アトランタオリンピックでも12位と期待はずれの結果に終わるなど目立った活躍ができなかった。
ランス・アームストロング(2004年のツール・ド・フランス、タイムトライアルステージにて)ランス・アームストロング
(Tour de France 2005)LIVESTRONGプロジェクトのリストバンド

身体の不調を感じ、診断を受けたランスは1996年10月2日、医師から自分が精巣腫瘍に侵され、既に肺と脳にも転移しており、生存確率は50%であることを告げられる(ナイキによって2005年から発売されている彼のブランド「10//2」やトレック社「1/2 Series」はこれが由来)。

精巣腫瘍には化学療法を施すのが一般的だが、治療薬のブレオマイシンには肺毒性があり、間質性肺炎を引き起こすなど、心肺機能を低減してしまう副作用があるため、プロの自転車選手として復帰することは不可能になると判断したランスはこれを拒否。結局インディアナ大学医学部で心肺機能へのダメージは少ないが、より過酷な化学療法を施し、さらに脳の浸潤部を切除することとなった。

その後、幸運にも治療は成功し、小康状態となったという診断を受けてトレーニングを再開。しかし所属していたコフィディスからは、再起不能とみなされて事務的に解雇された。
競技生活後半

その後もリハビリとトレーニングを続け、デビュー時に所属していたモトローラ1997年に解散したのに伴い、新たに結成されたUSポスタル・サービスと契約し、翌年にプロとして復帰。初戦となったパリ?ニースで以前のように動かない自分の体に苛立ち途中リタイア、一時はそのまま自転車人生もリタイアしかかる。妻やヨハン・ブリュイネールらの説得により全米選手権をラストランとすることにしたが、そこで好成績をあげた事で本人のやる気も復活し、同年のブエルタ・ア・エスパーニャで総合4位、世界選手権タイムトライアル、同ロードレースでもそれぞれ4位に入り、復活をアピールした。山岳ステージの厳しさではツール・ド・フランスを上回るとされる同レースで上位入賞を果たしたことにより、彼はステージレースを戦い抜く自信を持ったといわれている。ただし、1998年8月以降の成績はその後ドーピングによるものとして剥奪されているため、この年のブエルタ以降の成績は現在では無効である。

1999年ドーフィネ・リベレを総合8位(ステージ1勝)で終え、好調のままツール・ド・フランスに出場したランスはプロローグステージの個人タイムトライアルで優勝。そのままステージ4勝をあげて総合2位のアレックス・ツェーレに7分以上の差をつけて圧勝。ツール・ド・フランス7連覇へ第一歩を記した。

2000年も最大のライバルとみなされていたヤン・ウルリッヒに6分以上の差をつけてツール・ド・フランス2連覇。さらに2000年シドニーオリンピックでは個人タイムトライアルで銅メダルを獲得した。また、同年5月には癌との闘いと復活を綴った『It's Not About the Bike(日本語題:ただマイヨ・ジョーヌのためでなく)』を出版。アメリカをはじめ各国でベストセラーとなった。

2001年ツール・ド・スイスで総合優勝。ツール・ド・フランスでは第8ステージで大逃げが決まり、一時は総合で35分差をつけられたが、逆転して3連覇を達成。続く2002年ドーフィネ・リベレで総合優勝を達成し、ツール・ド・フランス4連覇も果たした。

2003年ドーフィネ・リベレを連覇し、ミゲル・インドゥラインに並ぶ5連覇の期待がかかるなかでツール・ド・フランスに出場。しかしこの年はヤン・ウルリッヒが絶好調で、第12ステージの個人タイムトライアルでは補給ミスからの脱水症状に襲われ1分以上もタイムを詰められてしまう。さらに次の第13ステージではウルリッヒのアタックにランスが付いていけずに遅れるという事態が発生。マイヨ・ジョーヌこそ守ったものの、第14ステージ終了時点で両者の差は15秒、さらに3位のアレクサンドル・ヴィノクロフとも18秒差というかつてない危機をランスは迎えることになった。

そして次の第15ステージでウルリッヒたちとアタック合戦を繰り広げていたゴール手前9.5km地点で、ランスのハンドルに沿道の観客の持っていた袋が絡み付いて落車してしまう。ウルリッヒをはじめとする集団は紳士協定にのっとり落車したランスを待った。レースに復帰したランスは待っていた集団に追い付いたあと、そのままアタックを決め、そのままウルリッヒらを置き去りにする。先頭を走っていたシルヴァン・シャヴァネルをも追い越しステージ優勝を飾り、ウルリッヒに40秒差をつけることに成功。個人タイムトライアルの第19ステージでは雨の中必死に走るウルリッヒがロータリーで落車しタイム差を離し勝負が決まった。第20ステージはこの差を守りきって5連覇を達成した。

また、この年にナイキと契約し、LIVESTRONGプロジェクトとして、黄色のリストバンドを発売し、その売上げを癌患者の支援にあてる運動を始めた。

2004年は、天候不順や落車でライバルたちが次々脱落していくなか手堅くタイムを刻んでいき、後半の山岳ステージで勝利を量産。チームタイムトライアルでの1勝を含む5勝をあげて総合優勝を果たし、インデュラインを超える6連覇を達成した。

そして2005年4月、同年のツール・ド・フランスを最後に現役を引退することを発表。危なげないレース運びで7度目の総合優勝を獲得し、これを花道にいったん現役を退いた。
現役復帰

その後、トレック社のアドバイザーを務めたり、チャリティー活動の一環でニューヨークシティマラソンに参加するなどしていたが、2008年9月に現役復帰することを表明。「家族や親しい友人と話した結果、がんの苦しみに対する世界の人々の意識を高めるため、プロとしての自転車競技への復帰を決めたことを、喜んで発表する」というコメントを発表し、9月25日アスタナ・チームへの加入が正式に発表された。

2009年1月、ツアー・ダウンアンダーに出場して現役復帰を果たした。


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