ランゴバルド族はゲピド族と抗争を繰り返し、566年になって東ローマ帝国がゲピド族と同盟を結ぶと、ランゴバルド族はその東方にいたアヴァール人と結んでこれに対抗、結果としてゲピド族は567年に滅亡した[7]。 しかし強大なアヴァール人に圧迫を受けるようになったランゴバルド族は568年になると、王アルボインに率いられてイタリア半島に侵入し、その年のうちにヴェネト地方の大半を占領した[8]。569年にはメディオラヌムを、572年にはティーキヌムを占領し[注 2]、後者を首都としてランゴバルド王国が成立した[8][9][10]。 その勢いは衰えず、570/1年には諸公の一人ファロアルド1世 572年にアルボインが暗殺され、王位を継いだクレフも574年に暗殺されると、ランゴバルド王国は30人以上の諸公が支配する連合政体へと変化した[11][12]。この統一王が存在しない時代は諸公の時代と呼ばれる[13]。 574年にランゴバルド人の一部がプロヴァンスに侵攻したが、フランク王国の逆侵攻を招き、北イタリアは危機的な状況となった。ここで諸公はクレフの息子アウタリウスを王に選出し、彼が貢納金を支払ったことでフランク軍は一旦撤退した。 ランゴバルド諸公に対して、東ローマ帝国は金銭による懐柔外交を展開するとともに、フランク王国と同盟してこれを打倒しようとした[11][14]。 フランク王国は574年の遠征で貢納と領土の割譲を条件にランゴバルド族と講和しており、イタリア半島情勢への介入には消極的な姿勢を保っていた[15]が、東ローマの勧誘を受けて585年と588年にイタリアへ再侵入し、アウタリウスは貢納を条件に589年これと講和した。590年にもフランク族は大軍をもってランゴバルド王国を攻撃したが、これは掠奪をおこなうに止まった[16]。 フランクによる対外危機は分裂する傾向にあったランゴバルド族に結束の必要を認識させた。574年以来ランゴバルド族は王を戴かずに諸公の合議によって統治されていたのであるが、584年になると、アウタリウスが選出されて王となった。アウタリウスの死後跡を継いだアギルルフス アウタリウスの治世に首都パヴィアを中心として王国としてのまとまりが現れ始め、次代のアギルルフスの治世下には統治制度が整備されて国家としての体裁をとるようになった[18]。パウルス・ディアコヌスは『ランゴバルド史』の中で、このアギルルフスの治世に実現された平和を賞賛している。 616年のアギフルススの死後はアダロアルドゥス また彼女以後歴代の国王は、三章書論争 626年にアダロアルドゥス 636年にアリオアルドゥスが死ぬと、その妃グンディベルガ
アルボインによる王国創始
諸公の時代
東ローマ帝国とフランク王国による征討
アウタリウス・アギルルフス
アダロアルドゥス時代のカトリックへの改宗
アリオアルドゥスの時代
ロターリのアロディ朝