ランゴバルド王国
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ランゴバルド族は1世紀までにエルベ川下流域に定住し、その後547年に東ローマ帝国によって、パンノニアノリクムの境界地域に定住を許された[3]。パンノニアはゴート戦争開始によって生じた防備の弱体化をついてゲピド族によって占領されており、彼らはシルミウムを首都として王国を築いた。そのため、東ローマ帝国はゲピド族と東ゴート王国への対抗の意味で領内にランゴバルド族を招き入れたのであった[4][5][注 1]

ランゴバルド族はゲピド族と抗争を繰り返し、566年になって東ローマ帝国がゲピド族と同盟を結ぶと、ランゴバルド族はその東方にいたアヴァール人と結んでこれに対抗、結果としてゲピド族は567年に滅亡した[7]
アルボインによる王国創始

しかし強大なアヴァール人に圧迫を受けるようになったランゴバルド族は568年になると、王アルボインに率いられてイタリア半島に侵入し、その年のうちにヴェネト地方の大半を占領した[8]569年にはメディオラヌムを、572年にはティーキヌムを占領し[注 2]、後者を首都としてランゴバルド王国が成立した[8][9][10]

その勢いは衰えず、570/1年には諸公の一人ファロアルド1世(英語版)はスポレートを支配下においてスポレート公国を築き、他の諸公ゾットーネ(イタリア語版、英語版)はさらに南下してベネヴェントを占領、ベネヴェント公国を打ち立てた[11][12]
諸公の時代

572年にアルボインが暗殺され、王位を継いだクレフ574年に暗殺されると、ランゴバルド王国は30人以上の諸公が支配する連合政体へと変化した[11][12]。この統一王が存在しない時代は諸公の時代と呼ばれる[13]

574年にランゴバルド人の一部がプロヴァンスに侵攻したが、フランク王国の逆侵攻を招き、北イタリアは危機的な状況となった。ここで諸公はクレフの息子アウタリウスを王に選出し、彼が貢納金を支払ったことでフランク軍は一旦撤退した。
東ローマ帝国とフランク王国による征討

ランゴバルド諸公に対して、東ローマ帝国は金銭による懐柔外交を展開するとともに、フランク王国と同盟してこれを打倒しようとした[11][14]

フランク王国は574年の遠征で貢納と領土の割譲を条件にランゴバルド族と講和しており、イタリア半島情勢への介入には消極的な姿勢を保っていた[15]が、東ローマの勧誘を受けて585年588年にイタリアへ再侵入し、アウタリウスは貢納を条件に589年これと講和した。590年にもフランク族は大軍をもってランゴバルド王国を攻撃したが、これは掠奪をおこなうに止まった[16]
アウタリウス・アギルルフス

フランクによる対外危機は分裂する傾向にあったランゴバルド族に結束の必要を認識させた。574年以来ランゴバルド族は王を戴かずに諸公の合議によって統治されていたのであるが、584年になると、アウタリウスが選出されて王となった。アウタリウスの死後跡を継いだアギルルフスは591年、毎年の貢納を条件にフランク王国と和解し、東ローマ領を侵し始め、593年にはローマを包囲してグレゴリウス1世と交渉し、598年には教皇と講和した[17]

アウタリウスの治世に首都パヴィアを中心として王国としてのまとまりが現れ始め、次代のアギルルフスの治世下には統治制度が整備されて国家としての体裁をとるようになった[18]パウルス・ディアコヌスは『ランゴバルド史』の中で、このアギルルフスの治世に実現された平和を賞賛している。
アダロアルドゥス時代のカトリックへの改宗

616年のアギフルススの死後はアダロアルドゥスが継いだが、妃であったテオデリンダが権力を握った。テオデリンダはカトリック信仰に熱心で、教皇グレゴリウス1世とも親しく、聖コルンバヌスによる修道院設立を支援した。アギフルススがアリウス派を捨て、カトリックに改宗したのも彼女の影響である。

また彼女以後歴代の国王は、三章書論争(三主題論争)で三章書を支持して分離したミラノアクィレイアの教会とローマ教会との調停に尽力した。三章書とはモプスエスティアのテオドロスの著作、キュロスのテオドレトスによるアレクサンドリアのキュリロスに対する駁論、エデッサのイヴァスによるテオドロス賞賛の手紙を指す。単性説カルケドン派の対立において、単性説側はこれら三章書がネストリウス的異端に染まっているとし、異端の書であるにもかかわらず、カルケドン公会議はこれらの書を批判していないとして非難した。ユスティニアヌスはこれを受けて三章書を異端とする勅令を543年545年に出したが、これにローマ教皇ウィギリウスをはじめ西方教会が反発した。ユスティニアヌスはウィギリウスをコンスタンティノープルに招いて説得に努め、ウィギリウスは翻意して三章書を非難するようになったが、西方の司教たちは逆に教皇を非難して破門し、ウィギリウスは動揺して三章書批判を撤回した。553年第2コンスタンティノープル公会議で三章書を異端とする勅令が出され、この問題の最終決着が図られたが、西方教会ではこれを認めなかった[19]。とくに三章書を積極的に支持し、ローマ教皇の不明瞭な態度を非難する一派はアクィレイア司教マケドニウスを中心にアクィレイアで教会会議を開き、独自の総主教をたてて独立した。この「三章書のシスマ」は658年まで続いた。(en:Schism of the Three Chapters参照)
アリオアルドゥスの時代

626年にアダロアルドゥスは義兄アリオアルドゥスによって弑され、アリオアルドゥスは王位に就いた。この簒奪の背景には東ローマ帝国との融和政策に対するランゴバルド武人の不満があったと考えられる。アリオアルドゥスはアリウス派であった。
ロターリのアロディ朝

636年にアリオアルドゥスが死ぬと、その妃グンディベルガを娶ったロターリ(英語版)が王に選出された。ロターリは東方でイスラーム教徒と争っている東ローマ帝国の支配のゆるみをついて領土を積極的に拡大し、リグーリアコルシカ・ヴェネツィア周辺部などを奪取した[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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