ランゴバルド族
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カルパティア山脈まで到達した後、東方から侵入してきたフン族と接触し戦闘が行われた。その後のフン族が関わるローマとの戦いにランゴバルド人が登場しないことから、フン族全盛期においてもランゴバルド人はその支配下には入らずにいたと考えられている[11]

5世紀後半、イタリアの支配権を握ったオドアケル488年ノリクム属州の北側、ドナウ川の対岸に居住していたルギー人を撃破して追い散らし、現地でルギー人の支配下にあった住民をイタリアに移住させた上で撤退すると、空白地帯となったノリクム属州北側にランゴバルド人が移動し、ノリクム属州にはヘルール人が移住した[12]。ランゴバルド人はヘルール人の支配下に入り貢納義務を負わされたが、数年後にはタトー(英語版)王の指揮の下、すぐ東方のフェルド(Feld)と呼ばれる平原に移動した[12]。この地でヘルール人の支配に反抗し、勝利を収めて独立勢力となった[12]。続くワコー(英語版)王の下、当時東に隣接して居住していたスエビ人を打ち破って支配下に置き、北側でもヘルール人を追ってモラヴィア(メーレン)、ベーメン地方を征服した。更にワコーはテューリンゲン族(英語版)の王女ライクンダ(Raicunda)、ゲピド族の王女アウストリグサ(Austrigusa)、ヘルール族の王女シリンガ(Silinga)を娶り、アウストリグサとの間の長女ウィシカルタ(Wisicharta)をフランク王国の王テウデベルト1世へ、次女ワルデラータ(英語版)(Warderata)をテウデベルト1世の息子テウデバルト(英語版)へ、それぞれ嫁がせた。また東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と同盟を結び、ドナウ川中流域の有力な王として台頭するに至った[13]
ローマ領内への移動パンノニア(現スロバキアハンガリー付近)における分布(6世紀前半)

540年頃、ワコーは死んだ。ワコーは自分の息子であるワルタリ(英語版)に王位を継承させるため、自分の即位時に甥であるリシウルフを追放していた(ランゴバルド部族法では彼が次の正統な王位継承者であった。)[14]。これによりワルタリが王位を継ぐことができたが、彼の治世は短命に終わり、ガウス家(イタリア語版)のアウドイン(英語版)が王位についた[15]。当時東ローマ帝国はユスティニアヌス1世の下、イタリア半島の支配権を東ゴート王国から取り戻すべく長い戦争の最中であった(ゴート戦争)。イタリア半島に交通の便が良いドナウ中流域で急速に勢力を拡大したランゴバルド人は、東ローマ帝国にとって戦略上無視できない存在となっていた[15]546年にユスティニアヌス1世はランゴバルド人を味方とするためアウドインと盟約を結び、巨額の年金を与えること約すとともにノリクム、パンノニアへの移住をランゴバルド人に許可した[15]。この時初めてランゴバルド人は「ローマ帝国領」に移住した[15]。この結果、後にユスティニアヌス1世はイタリアでの戦いにおいて、同盟軍(フォエドゥス foedus)となったランゴバルド人から援軍を得る事ができた[15]。しかしアウドインと彼の指揮するランゴバルド人は東ローマ帝国が期待したような従順な同盟者ではなく、548年にはダルマティアイリュリクムを寇略し、多数の住民を奴隷として連れ去るなどの問題を引き起こした[16]

ローマ領内でも急激に勢力を拡張するランゴバルド人は、同じくローマ領内のシルミウムに拠点を置いて勢力を持っていたゲピド族(ゲピド王国)と対立するようになった[14]。更にワコー王に追放されたリシウルフの息子、イルディゲスを巡るランゴバルドの内紛が事態を悪化させた。イルディゲスは自分がランゴバルドの王位継承者であるとし、その正統な地位の回復への支援をゲピド王に求めた[14]547年549年には軍事衝突に至る可能性のある危機があったが、この時は実際の戦闘に入る前に和平が行われた[14]。イルディゲスはゲピド族から期待した支援を得られないことを悟ると、一時スラブ人の下に身を寄せ、その後独自にランゴバルド人、ゲピド人、スラブ人からなる混成軍を率いて東ゴート王国と結ぶべくイタリアへ向かい、ゴート戦争に参加して東ローマ軍と戦うなど流転の人生を歩んだ[14]。イルディゲスが去った後も両部族の対立は続き、551年に遂に軍事衝突に発展し、ランゴバルド人はゲピド族を打ち破った[14]。しかしランゴバルド人が過剰に勢力を拡大することを望まなかった東ローマ帝国は、両部族の和平を画策して介入し、結局ゲピド族を完全に滅亡させることなく和平が結ばれた[14]。その後、ランゴバルド人は東ローマ帝国の同盟軍としてゴート戦争に参加し、552年には東ゴート王トーティラを戦傷死させるなどの活躍を示したが、占領した都市で放火略奪をほしいままにし、教会に避難した婦女に暴行を加えるなど暴虐の限りを働いた[17][5]。このため激怒した東ローマ軍の司令官ナルセスによって護送軍付きでイタリアから退去させられた[17]
イタリア侵入

560年にアウドインが死去すると、その息子アルボイン(アルボイーノ)が即位した。ほぼ同じ頃、ゲピド族でも新たな王クニムンド(英語版)が即位し、この二人の王の下で両部族の対立が再燃することになった[18]。再び両部族の戦闘が始まると、当初アルボインは優勢に戦いを進めたが、東ローマ帝国がゲピド族を支援しはじめ、その援助を得たゲピド軍に敗北して苦境に陥った[19]。このため、アルボインはパンノニアで新たに勢力を拡大していたアヴァール人ハーン、バイアヌス(バイアン・ハーン)に同盟を依頼した[18]。ランゴバルドが敗勢にある中で結ばれたこの同盟は、戦闘参加に先立ってランゴバルド人が保有する家畜の十分の一をアヴァール人に引き渡し、戦闘終了後には戦利品の半分及び占領したゲピド族の領土全てをアヴァール側が接収するという、極めて不利な条件で結ばれた[19]。ゲピド側は対抗して東ローマ帝国の援軍を求めたが、皇帝ユスティヌス2世は口約束のみで実際に援軍を送ることはなく、アヴァール人とランゴバルド人に挟撃されたゲピド王クニムンドはドナウ川とティサ川の間で激戦の末に敗北し、戦死した[19]。この敗北によってゲピド族の一部はランゴバルド人に投降し、一部はアヴァール人の隷属民とされ、他の生存者は皇帝の庇護を求めて東ローマ帝国へと移り、部族として消滅するに至った[19]

こうしてゲピド族との戦いに勝利を収めたアルボインであったが、ゲピド族よりも遥かに強力なアヴァール人の脅威に対処しなければならなくなった上、パンノニア周辺が戦争の結果荒廃したことから、ゴート戦争の参加によってその豊かさを知っていたイタリアへの移動を画策した[20]。ランゴバルド人の兵力が十分でなかったことからイタリア侵攻の成功を確信できなかったアルボインは、現在の領土をアヴァール人に空け渡すが、移動後に帰還した場合には元の土地の所有権をランゴバルド人に返還するという契約をアヴァール人と結び、スエビ人、パンノニアとノリクムのローマ属州民、ゲピド人の残党、サルマタイを兵力に加え、更に20,000人にも上るザクセン人を招請してイタリアへ進発した[21]

こうして形成された、ランゴバルド人を中核とする緩い結合集団は、アルボインの指揮の下で568年5月にイタリアに入った[21][22][23]。前年にナルセスが解任されていた東ローマ帝国のイタリア駐留軍はこの侵入に対処できず、アルボインは北イタリアと中部イタリア一体を制圧し、ミラノ(メディオラヌム)を拠点にランゴバルド王国(Regnum Langobardonum)を建設した[24]


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