ラングーン事件
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その後に行われた『ビルマ暗殺爆発事件北傀殺人蛮行糾弾決起大会』[注 5]では一般国民の代表が「同族を殺害した金日成を打倒しよう」と演説した[8][9][7]。対して北朝鮮は『南が我々を陥れるために起こした自作自演の事件である』と関与を全否定し韓国政府の発表に反発[10]軍事境界線は一触即発の状態になった。

日本やアメリカ等では実行犯に関して、当初は韓国の反政府組織説やビルマ国内のカレン族等の少数民族説、ゲリラ展開を続けるビルマ共産党説、またはネ・ウィン前大統領に次ぐナンバー2と目されながら、当時失脚したばかりのティン・ウ准将の支持グループ説等、様々な憶測が飛び交っていた。[要出典]

ビルマ警察の捜査と追跡により、北朝鮮工作員3名は追い詰められ銃撃戦の末に逮捕された。キム上尉は射殺され、キム少佐とカン上尉が重傷を負った。2人は警察に対して作戦の全貌を自供し、11月4日にビルマ政府は犯行を北朝鮮によるものと断定して[11]3人の北朝鮮軍軍人を実行犯として告発した。

ビルマは裁判において、朝鮮語英語を用いて北朝鮮人である被疑者への裁判の理解力を確かめる努力をしたり、北朝鮮の外交使節や世界の報道機関にも公開した裁判で国際社会の信頼を得られ、当時名高い非同盟中立国であったビルマが出した北朝鮮によるテロリズムという結論は、国際的に認知された[要出典]。

事件当時、ビルマは南北等距離外交を行っていた。ラングーンには双方の大使館があったがビルマは南北両朝鮮には大使館は設置せず、北朝鮮への大使は駐中ビルマ大使が、韓国への大使は駐日ビルマ大使がそれぞれ兼任していた。非同盟中立を標榜していたビルマは、北朝鮮との関係は事件前はかなり友好的なものであった。

しかしながら、「建国の父」であるアウンサンの墓所を爆破し要人の暗殺に利用するという行為にビルマ政府は憤慨し[12]、北朝鮮との国交を断絶するのみならず国家承認の取り消しという厳しい措置を行い[12][13]1985年には当時の最高指導者であったビルマ社会主義計画党(BSPP)のネ・ウィン議長によってアウンサン廟は再建された[14][15]。その後両国の国交が回復する2007年まで、24年の歳月を要した。

この事件により、ビルマだけでなく他の非同盟中立諸国からも北朝鮮は顰蹙を買うことになり、北朝鮮の思惑とは逆に多くのアフリカ諸国がソウルオリンピックに参加することになった。一方、東ヨーロッパ諸国は1987年大韓航空機爆破事件で、ソウルオリンピック参加に傾いた。[要出典]

事件に際し、日本共産党朝鮮労働党に対し非難声明を発表したが、朝鮮労働党が不誠実な態度を取ったため、両党の政党間交流は断絶した。断絶は現在も続いており、日本共産党は北朝鮮を「世襲による専制政治体制」と見なしており、ベトナムキューバのように「社会主義をめざす国」とは規定していない。[要出典]
死亡者
韓国側の死亡者

徐錫俊
(朝鮮語版)(国務副総理兼経済企画院長官)

李範錫(朝鮮語版)(外務部長官)

金東輝(朝鮮語版)(商工部長)

徐相(朝鮮語版)(動力資源部長官)

咸秉春(大統領秘書室長)

金在益(朝鮮語版)(大統領府経済担当首席秘書官)

沈相宇(大統領府秘書官)[16]

閔丙錫(大統領主治医)

実行犯の自白

テ・チャンス司令官(北朝鮮の開城地区特殊工作部隊)の命令によって、以下の3人から成る暗殺班が組織された。

キム・ジンス少佐(逮捕)

カン・ミンチョル上尉(逮捕)

キム・チホ上尉(ビルマ警察との銃撃戦で射殺)

暗殺班は、9月9日に北朝鮮の貨物船・東健号で、甕津港を出港。9月16日にラングーン港へ到着。9月17日から24日までラングーン港内に停泊。ラングーン港到着後、在ビルマ北朝鮮大使館のチョン・チャンヒ参事官宅に匿われる[注 6]

アウンサン廟に爆弾をしかけたのは、10月7日夜10時頃で、指揮官のキム少佐が見張りにあたり、カン上尉が廟の屋根にのぼり、キム上尉から爆弾を手渡されて設置した。事件当日、アウン・サン廟に近いウィザヤ映画館附近で爆弾の遠隔操作によって実際に爆発させたのは、指揮官のキム少佐であった。
東健号(東建愛国号)問題

北朝鮮軍特殊工作員兵士3名をビルマに送り込んだ「東健号」は、在日本朝鮮人総聯合会に所属する兵庫県商工会会長の文東建が、日本の高知県造船し、1976年昭和51年)に北朝鮮に寄贈し、金日成から直接に「東建愛国号」と名付けられた貨物船である[17]。翌1977年(昭和52年)からは宇出津(うしつ)事件や少女拉致事案のような北朝鮮政府と関係者による日本人拉致事件が始まった。

この寄贈により、文東建は1977年2月に北朝鮮最高勲章の一つである金日成勲章を受章し[17]、後に全演植[注 7]と共に、在日朝鮮商工人から初の朝鮮総連副議長となった。当時、朝鮮総連議長ですら成し得なかった、金日成と文東建のツーショット写真が北朝鮮の日本語宣伝雑誌『今日の朝鮮』1976年8月号に掲載され、在日朝鮮人社会に大きな衝撃を与えると共に、それが「金銭の力で地位を買える」という事実を知らしめる結果となって、合法非合法を問わず、日本国内から北朝鮮の軍事独裁体制を支えていた、在日朝鮮人による北朝鮮への送金の始まりとなった。

ラングーン事件が起きた後に『週刊朝日』1983年11月4日号が、「犯人の兵士をビルマに運んだ船が文東建の寄贈船である」と報じると、文東建は「そんな事実はない」と否定し、1983年11月21日に週刊朝日を名誉毀損で神戸地方裁判所に訴えたが[18]、裁判開始直後に文は死亡し、その後文の関係者は裁判を放り出したために、結局うやむやになった。[要出典]
その後の変遷

キム少佐は死刑判決を受け、1985年に執行された。カン上尉は犯行を自白したため、死刑から終身刑に減刑された。カン上尉は1990年代後半から心情の変化を生じ、刑の規定などで釈放されることがあれば、韓国行きを希望すると述べたが、実現することはなかった[19]

2006年4月にはミャンマーが北朝鮮の外交関係を将来、全面回復することを実務者レベルの協議で合意。2007年4月26日、北朝鮮側の代表である金永日外務次官と、ミャンマー側代表チョー・トゥ外務次官の間で、正式に合意文書が署名され、24年ぶりに国交を回復。合意の背景には、近年の両国に対する国際非難を牽制する狙いがあったとされている。

2008年5月18日、カン上尉が肝臓癌のため、ヤンゴン近郊の刑務所にて死亡したと発表された。これによって、実行犯全員が死亡した。また総指揮を取ったとされた張成禹も、2009年8月に死去したことが判明した[5]

事件の舞台となったアウンサン廟は事件後、ミャンマー政府による厳重警備が実施され、施設は閉鎖されていたが、事件から30年目の2013年6月1日に、一般公開が再開された[2][20]


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