ラルフ・ワルド・エマーソン
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[6]エマーソンは成人できた5人の息子達の2番目で、他の兄弟はウィリアム、エドワード、ロバート・バークレー、チャールズである。[7]他の3人の子供達、フェーベ、ジョン・クラーク、マリー・カロリーヌは、成人する前に亡くなった。[7]

1811年5月12日、8歳になる10日程前に、父が胃癌のため若くして他界した。[8] エマーソンは一族の女性達に助けられながら、母親に養育された。叔母のマリー・ムーディ・エマーソンが、彼に特に深く影響を与えた。[9]彼女は断続的に共に暮らし、1863年に亡くなるまでエマーソンと文通し続けた。[10]

エマーソンの正規教育は、1812年、9歳の時、ボストン・ラテン・スクールに始まった。[11]1817年8月、14歳でハーバード大学に入学した。そこでは新入生の連絡係に任命され、不品行の学生を呼んで教員に伝えることが求められた。[12]3年生の半ばからエマーソンは読んだ本のリストと、後に'Wide World'と呼ばれることになる、何冊もに及ぶ日記をつけ始めた。[13]エマーソンは学費をまかなうために仕事もした。それには学生食堂のウエイター、マサチューセッツ州ウォルサムの伯父サムエルの元での臨時講師があった。[14]4年時にエマーソンは、ミドルネームのワルドを使うことに決めた[15]。 エマーソンは学級詩人としての慣例に習い、正式な卒業1ヶ月前の1821年8月29日、18歳の時、ハーバード大学卒業式で自作の詩を発表した[16]。卒業礼拝では、神秘家・神学者・科学者のエマニュエル・スウェーデンボルグに強い影響を受けた学生サンプソン・リードのスピーチを聞いて、深い感銘を受け、スピーチ原稿を書き写して宝物にした[17]。これが生涯続くスウェーデンボルグへの関心の契機となったと考えられている[17]。エマーソンは学生として突出せず、59人の級友のちょうど中位で卒業した。[18]

1826年、エマーソンは健康問題から温暖な気候を求めて移り住んだ。最初にサウスカロライナ州チャールストンに行ったが、十分な暖かさはなかった。[19]そこでさらに南の、フロリダ州セントオーガスティンへ行った。そこで彼は長いこと浜辺を散策し、詩を書き始めた。セントオーガスティンにいる間に、ナポレオン・ボナパルトの甥アシーユ・ミュラ王子と知り合いになった。ミュラはわずか2歳年上で、彼らはとても親しくなった。二人は宗教、社会、哲学、政治についての啓発的な議論をした。エマーソンはミュラを、自身の知的教養における重要人物ととらえていた[20]。1826年に出版されたサンプソン・リードの『心の成長に関する観察』を読んで、リードに決定的に傾倒するようになる[17]。エマーソンはリードの著作を繰り返し読んで座右の書とし、これを基礎に執筆活動を始めた[21]


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