ラルフ・ワルド・エマーソン
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[23][24]ウィリアムが神学を学ぶためにゲッティンゲンに行くと、エマーソンはその学校を任かされた。その後数年にわたって教師として生計を立て、それからハーバード神学校に行った。2歳年下の弟エドワードは、ハーバード大学を首席で卒業した後、ダニエル・ウェブスターの法律事務所に入った。[25]エドワードの健康は悪化し始め、その上程なく精神の崩壊にも苦しむこととなった。彼は1828年6月、23歳でマクリーン精神病院に収容された。精神の安定は取り戻したものの、1834年、長年患った結核で亡くなったとみられる。[26]1808年生まれの聡明で将来を約束された弟チャールズは、1836年に同じく結核により死去した。[27]これでエマーソンは、数年の内に若い近親者を3人失うこととなった。

エマーソンが最初の妻エレン・ルイザ・ツッカーにニューハンプシャー州コンコードで出会ったのは1827年クリスマスであり、彼女が18歳になって結婚した[28]。2人はボストンに引っ越したが、既に結核に冒されていたエレンを世話するため、母のルースがついて行った[29]。2年も経たずに、1831年2月8日、エレンは20歳で世を去った。彼女の最後の言葉は「私は平穏と喜びを忘れたことはない」であった[30]。エマーソンは彼女の死に痛く衝撃を受け、毎日ロックスバリーの墓地を訪れた[31]1832年3月29日の手記には、「私はエレンの墓へ行き、棺を開いた」と記された[32]

ボストン第二教会がエマーソンを助任牧師として招き、1829年1月11日に職位を授けられた[33]。彼の初任給は年1,200ドルだったが、7月には1,400ドルに上がった[34]。しかし彼は教会の仕事に加え、他の任にもあずかっていた。マサチューセッツ議会の牧師であり、ボストン学校会議のメンバーでもあった。教会の仕事は彼を多忙にし、この頃妻の死が差し迫っていたのだが、自分の信仰を疑い始めていた。

妻の死後、彼は教会のやり方に賛同しなくなってきた。1832年6月の日記には、「私は時にこう思う。良き聖職者になるには、聖職を離れる必要があるのではないか。信仰告白は時代遅れだ。時代は変わったのに、我々は先祖達のだめになったやり方で礼拝している」とある[35]。エマーソンは教派の勤めの執行についてと、一般的な礼拝法に対する疑念について、教会との意見の相違を公にし、1832年に解任された。「このようにしてキリストを讃えることは、私には合っていない。私がそれをやめる理由として十分だ」と彼は書いている[36][37]。あるエマーソン学者は、「牧師の作法に適った黒衣を脱ぎ捨て、彼は自由に講演者や教師の衣を、つまりは慣例や伝統の限界に縛られない思索家の衣を選んだのである」と指摘している[38]

エマーソンは1833年にヨーロッパを旅行し、後に1856年の'English Traits'に書いている[39]。彼は1832年クリスマスにジャスパー号に乗船し、まずマルタ島へ向かった[40]。ヨーロッパ旅行の間に数ヶ月をイタリアで過ごし、ローマフィレンツェヴェネツィアなどの都市を訪れた。


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