ラルフ・ワルド・エマーソン
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エマーソンはミュラを、自身の知的教養における重要人物ととらえていた[20]。1826年に出版されたサンプソン・リードの『心の成長に関する観察』を読んで、リードに決定的に傾倒するようになる[17]。エマーソンはリードの著作を繰り返し読んで座右の書とし、これを基礎に執筆活動を始めた[21]。そこに説かれていた「相応」というスウェーデンボルグ神学の独特の概念が、彼の思想の中心概念となり、スウェーデンボルグ神学は、のちの超絶主義の重要な概念となった[22]
初期の経歴銅版画, 1878

ハーバード大学を卒業し、マサチューセッツ州チェルムズフォードに自分の学校を建てた後、エマーソンは、母の家に設立した若い女性のための学校で、兄ウィリアムを手伝った。[23][24]ウィリアムが神学を学ぶためにゲッティンゲンに行くと、エマーソンはその学校を任かされた。その後数年にわたって教師として生計を立て、それからハーバード神学校に行った。2歳年下の弟エドワードは、ハーバード大学を首席で卒業した後、ダニエル・ウェブスターの法律事務所に入った。[25]エドワードの健康は悪化し始め、その上程なく精神の崩壊にも苦しむこととなった。彼は1828年6月、23歳でマクリーン精神病院に収容された。精神の安定は取り戻したものの、1834年、長年患った結核で亡くなったとみられる。[26]1808年生まれの聡明で将来を約束された弟チャールズは、1836年に同じく結核により死去した。[27]これでエマーソンは、数年の内に若い近親者を3人失うこととなった。

エマーソンが最初の妻エレン・ルイザ・ツッカーにニューハンプシャー州コンコードで出会ったのは1827年クリスマスであり、彼女が18歳になって結婚した[28]。2人はボストンに引っ越したが、既に結核に冒されていたエレンを世話するため、母のルースがついて行った[29]。2年も経たずに、1831年2月8日、エレンは20歳で世を去った。彼女の最後の言葉は「私は平穏と喜びを忘れたことはない」であった[30]。エマーソンは彼女の死に痛く衝撃を受け、毎日ロックスバリーの墓地を訪れた[31]1832年3月29日の手記には、「私はエレンの墓へ行き、棺を開いた」と記された[32]

ボストン第二教会がエマーソンを助任牧師として招き、1829年1月11日に職位を授けられた[33]。彼の初任給は年1,200ドルだったが、7月には1,400ドルに上がった[34]。しかし彼は教会の仕事に加え、他の任にもあずかっていた。マサチューセッツ議会の牧師であり、ボストン学校会議のメンバーでもあった。教会の仕事は彼を多忙にし、この頃妻の死が差し迫っていたのだが、自分の信仰を疑い始めていた。

妻の死後、彼は教会のやり方に賛同しなくなってきた。1832年6月の日記には、「私は時にこう思う。良き聖職者になるには、聖職を離れる必要があるのではないか。信仰告白は時代遅れだ。時代は変わったのに、我々は先祖達のだめになったやり方で礼拝している」とある[35]


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