ラルフ・ワルド・エマーソン
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エマーソンは学生として突出せず、59人の級友のちょうど中位で卒業した。[18]

1826年、エマーソンは健康問題から温暖な気候を求めて移り住んだ。最初にサウスカロライナ州チャールストンに行ったが、十分な暖かさはなかった。[19]そこでさらに南の、フロリダ州セントオーガスティンへ行った。そこで彼は長いこと浜辺を散策し、詩を書き始めた。セントオーガスティンにいる間に、ナポレオン・ボナパルトの甥アシーユ・ミュラ王子と知り合いになった。ミュラはわずか2歳年上で、彼らはとても親しくなった。二人は宗教、社会、哲学、政治についての啓発的な議論をした。エマーソンはミュラを、自身の知的教養における重要人物ととらえていた[20]。1826年に出版されたサンプソン・リードの『心の成長に関する観察』を読んで、リードに決定的に傾倒するようになる[17]。エマーソンはリードの著作を繰り返し読んで座右の書とし、これを基礎に執筆活動を始めた[21]。そこに説かれていた「相応」というスウェーデンボルグ神学の独特の概念が、彼の思想の中心概念となり、スウェーデンボルグ神学は、のちの超絶主義の重要な概念となった[22]
初期の経歴銅版画, 1878

ハーバード大学を卒業し、マサチューセッツ州チェルムズフォードに自分の学校を建てた後、エマーソンは、母の家に設立した若い女性のための学校で、兄ウィリアムを手伝った。[23][24]ウィリアムが神学を学ぶためにゲッティンゲンに行くと、エマーソンはその学校を任かされた。その後数年にわたって教師として生計を立て、それからハーバード神学校に行った。2歳年下の弟エドワードは、ハーバード大学を首席で卒業した後、ダニエル・ウェブスターの法律事務所に入った。[25]エドワードの健康は悪化し始め、その上程なく精神の崩壊にも苦しむこととなった。彼は1828年6月、23歳でマクリーン精神病院に収容された。精神の安定は取り戻したものの、1834年、長年患った結核で亡くなったとみられる。[26]1808年生まれの聡明で将来を約束された弟チャールズは、1836年に同じく結核により死去した。[27]これでエマーソンは、数年の内に若い近親者を3人失うこととなった。

エマーソンが最初の妻エレン・ルイザ・ツッカーにニューハンプシャー州コンコードで出会ったのは1827年クリスマスであり、彼女が18歳になって結婚した[28]。2人はボストンに引っ越したが、既に結核に冒されていたエレンを世話するため、母のルースがついて行った[29]。2年も経たずに、1831年2月8日、エレンは20歳で世を去った。彼女の最後の言葉は「私は平穏と喜びを忘れたことはない」であった[30]。エマーソンは彼女の死に痛く衝撃を受け、毎日ロックスバリーの墓地を訪れた[31]


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