ラルフ・ワルド・エマーソン
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エマーソンは主要な評論のほとんどを、まず講演用に書いてから出版用に改めた。最初の二つの評論集'Essays: First Series'と'Essays: Second Series'は、それぞれ1841年1844年に出版された。それらは'Self-Reliance'、'The Over-Soule'、'Circles'、'The Poet'、'Experience'が含み、彼の思想の核心である。'Nature'とこれらの評論によって、1830年代半ばから1840年代半ばにかけての10年間は、エマーソンにとって最も実り多い時期となった。

彼の評論は後の思想家、著述家、詩人に大きな影響を与えた。エマーソンは、自身の中心教義を一言にすると、「個人の無限性」であると語った[3]。エマーソンはまた、共に超絶主義者であるヘンリー・デイヴィッド・ソローの師であり友であることが有名である[4]
幼年時代、家族、教育

エマーソンは1803年5月25日、マサチューセッツ州ボストンで生まれた。[5]両親はルース・ハスキンスと、プロテスタントの一派であるユニテリアン派の聖職者であるレフ・ウィリアム・エマーソンである。彼は母方の伯父ラルフと父方の祖祖母レベッカ・ワルドから名付けられた。[6]エマーソンは成人できた5人の息子達の2番目で、他の兄弟はウィリアム、エドワード、ロバート・バークレー、チャールズである。[7]他の3人の子供達、フェーベ、ジョン・クラーク、マリー・カロリーヌは、成人する前に亡くなった。[7]

1811年5月12日、8歳になる10日程前に、父が胃癌のため若くして他界した。[8] エマーソンは一族の女性達に助けられながら、母親に養育された。叔母のマリー・ムーディ・エマーソンが、彼に特に深く影響を与えた。[9]彼女は断続的に共に暮らし、1863年に亡くなるまでエマーソンと文通し続けた。[10]

エマーソンの正規教育は、1812年、9歳の時、ボストン・ラテン・スクールに始まった。[11]1817年8月、14歳でハーバード大学に入学した。そこでは新入生の連絡係に任命され、不品行の学生を呼んで教員に伝えることが求められた。[12]3年生の半ばからエマーソンは読んだ本のリストと、後に'Wide World'と呼ばれることになる、何冊もに及ぶ日記をつけ始めた。[13]エマーソンは学費をまかなうために仕事もした。それには学生食堂のウエイター、マサチューセッツ州ウォルサムの伯父サムエルの元での臨時講師があった。[14]4年時にエマーソンは、ミドルネームのワルドを使うことに決めた[15]。 エマーソンは学級詩人としての慣例に習い、正式な卒業1ヶ月前の1821年8月29日、18歳の時、ハーバード大学卒業式で自作の詩を発表した[16]。卒業礼拝では、神秘家・神学者・科学者のエマニュエル・スウェーデンボルグに強い影響を受けた学生サンプソン・リードのスピーチを聞いて、深い感銘を受け、スピーチ原稿を書き写して宝物にした[17]。これが生涯続くスウェーデンボルグへの関心の契機となったと考えられている[17]。エマーソンは学生として突出せず、59人の級友のちょうど中位で卒業した。


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