自動車技術の進歩により、1930年代よりフットワークのあるラリー向けのコーチビルダーマシンが続々と名を連ねるようになっていく。ドナルド・ミッチェル・ヒーリーは既製品メドウズ社製エンジンに積み替えたインビクタ・Sタイプ (Invicta) を駆り1931年に優勝、1932年に2位に入っている。1935年には開発に携わったトライアンフ・ドロマイトで出場するなど、モータースポーツに対する話題性に一躍買っていた。また、仏車オチキスとフォード・V8 (Ford Model B (1932)) 勢にも勢いがあり、1932年から1934年まで3連勝を成し遂げている。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ラリー・モンテカルロは10年間中断する事となる。 戦前の環境下では専ら「選ばれし者とクルマ達による冒険」という趣があったが、10年のブランクを経て1949年に復活を遂げると、各メーカーが販売戦略の一環としてエントリーする巨大イベントのひとつとして変貌を遂げていく。 その変化はエントリー数に見て取れる様になり、1949年のエントラントは204台にものぼり、新興メーカーが低コストで大きな宣伝効果を狙うイベントにもなっていった。ブリストル等の変わり種も多かったが、イギリス・フォードはワークス・チームを編成して参加し始める。また、1951年よりバックヤードビルダーを始めとする英国車の参加が多くなっていくと、他のカテゴリで名声を挙げているスターリング・モス、ルイ・シロンなど有力ドライバー達の活躍により大会ステータスが年々向上していく。また1954年には、こうした選手達による減点ゼロ頻発を防ごうとスピード重視に規則改定し、GPコースでのスピードテストが加えられる。1955年になるとサンビーム・タルボ90 (Sunbeam-Talbot 90
復興変化の中の復活
ワークス・チームの台頭1963年に投入されたミニ・クーパー
1950年代後半より古き善きアマチュア主義の時代は終息して行くようにうかがえた。各メーカーが量産車とは名ばかりのコンベンショナルなラリー専用マシン(いわゆるワークスマシン)を作り上げ、プロフェッショナルなワークスチーム体制でしのぎを削るようになると、アマチュアドライバーが自分の車にわずかな改良を施してフロック等で好成績を得られるような競技レベルではなくなっていった。1963年大会のエントリープレート(サーブ96 エリック・カールソン車)
コンパクト小排気量FF車であるサーブ・96を駆るスタードライバー、エリック・カールソンは、メルセデスベンツ・220SE、シトロエン・DSなど並居るサルーンカーをよそに、1962年・1963年と連覇を成し遂げる。カールソンの活躍によるものも大きいが、当時ACMが設定していた排気量や車重、サイズに関わらず総合優勝を争えるようにしたハンディキャップ制度により、小型FF車でも勝利できるチャンスが巡ってきた。北欧系ドライバーが駆使する左足ブレーキング、FF車の特性を加味してのタックイン現象の利用により、モンテカルロのトリッキーな路面状況が次々と攻略されていく事になる。
サーブ以外にBMCがミニMkTを1960年に投入。1962年・1963年とミニ・クーパーへと進化させると、ラウノ・アルトーネンらが上位に食い込む活躍を見せる。この頃、後に英国フォードで手腕を発揮するスチュワート・ターナーがBMCワークスのマネージャーとなり、「ペースノート」、「レッキ」、「サービス計画」などの近代的なラリーシステムの骨格を導入し、モンテカルロでは後に常識となる「アイスノートクルー」を始めて起用した。ハンデを考慮し、マイナーチェンジしたモデルを複数クラスへ分散エントリーし[注釈 6]、共倒れのリスクを避けるためコンサントラシオンのスタート地点を分けるなど、一歩先を進むオペレーションが行われていくことになる。
クーパーSへ進化すると、1964年にパディ・ホプカークがミニで初めての勝利を獲得。1965年はヘルシンキでBMCディーラーを営むティモ・マキネン、1967年はアルトーネンも勝者となる。1966年も1、2フィニッシュしていたが、主催者のACMがヘッドライトの規定違反として「失格」とし、スキャンダルとなった[注釈 7]。この世代前後、FF車とRR車が約20年近く上位を独占する様になると「モンテではプロペラシャフト付きのクルマは勝てない」というジンクスが流布し、1980年代初頭までの時流となっていった[注釈 8]。 1962年からの4年間に及ぶミニの活躍の潮時はやってくる。1964年を最後に最終日恒例のGPコースタイムトライアルが廃止されるも、1965年にはSS距離が初めて200kmを超すコース取りとなる。1966年には簡略化されていたFIA競技車両規則がJ項と言う形で整理され、それに応える形でACMも「ハンディキャップ制」を廃止し、純粋なSSタイムでランキングを決めていくルールへと変更されていく。 この流れに台頭してきたのがポルシェ・911とアルピーヌ・A110である。1968年は911Tのビック・エルフォード
スポーツカー時代到来
1969年にはSSの距離が408kmにまで伸びる。ポルシェはビヨン・ワルデガルドと移籍したラルースの911Sが、1968年?1970年にかけて大会史上37年ぶりに3年連続1-2を達成する。1971年、ポルシェが販売戦略として914/6を投入すると、2年連続3位であるアルピーヌにチャンスが訪れる。155馬力にまで進化させたA110を6台体制で投入し、オベ・アンダーソンをスポット起用して1-2-3を成し遂げる。
1972年は上位を独占していたアルピーヌ勢が全滅し、1968年大会での悲劇[注釈 9]を乗り越えたサンドロ・ムナーリがランチア・フルヴィアHFで優勝する。WRC開幕戦として組み込まれることになった1973年はアルピーヌが1.8Lに進化し、1-2-3、5位と完勝を果たす。ポルシェワークスもラリー活動を縮小した事もあり、暫く誰もがこの流れが続くかに思えた。
1973年秋頃から第四次中東戦争含むオイルショックが発生し、多くのモータースポーツイベントが開催中止となる。ラリー・モンテカルロもそれに同調し、1974年の開催をキャンセルする。1年間のブランクを終えた1975年、コンサントラシオンを終えたラリーカーの勢力図はまた大きく変化して行く。
1960年代中盤より、ナイトステージ用にフォグランプ(ドライビングランプ)をステー等を使って後付搭載する様になり、1970年代ともなると一部スポーツカーを扱うチーム[注釈 10]ではライトポッドとして一体型となり、メンテナンスにおいて取り外ししやすい装備形状への合理化と変化がみられる。1970年代前後は、路面の積雪や凍結状況をペースノートに的確に反映させる「アイスノートクルー」が普及する途上で、チーム-ドライバー間の無線交信が普及しておらず[注釈 11]、観客がコース上に投げ入れた雪塊に、ドライ路面を得意とするスポット参戦の準レースドライバー達が足をすくわれ、結果に影響を及ぼす場面も時折見受けられた。 日本のワークスチームで最初にモンテカルロに挑んだのは日産自動車であった。ダットサンチームの名の下、1965年より1967年までブルーバード1600SSS、1968年、1969年はフェアレディ2000、そして1971年から1973年に240Zを投入。 1968年は若手のハンヌ・ミッコラがフェアレディ2000で9位入賞、1971年は優勝経験のあるラウノ・アルトーネンを招き240Zで5位、後のオペル(GM・ユーロハンドラー)チーム監督として手腕を発揮する事になるトニー・フォール
日本のエントラントによる挑戦
ワークス参戦
1979年、1980年にはWRC常連勢(トヨタ・セリカ等)の他にもホンダ・シビック RS等のスモールハッチがスポット参戦した。