地中海沿岸の高級リゾート都市モナコのモンテカルロ地区にスタート/ゴール地点が置かれる。有名な公営カジノ前の広場でセレモニアルスタートが行なわれ、夜間にモナコから北西に300 km以上離れたフランスオート=アルプ県の山岳地帯へ移動。2日目・3日目はギャップを拠点に、周辺のアルプス山脈の険しく曲がりくねった峠道を走行する。その後再びモナコへ戻り、上位60台のみが最終日のSSアタックへ向かう。最終日恒例のモナコGPコースで行われるタイムトライアルは1964年に廃止されたが、2007年からGPコースの一部を使用したスーパーSSへと刷新された。競技終了後は宮殿前で表彰式が行なわれ、時のモナコ大公から銀の賞杯が授与される。
舗装された公道を走るターマックラリーであるが、真冬の山間部は天候が変わりやすく、路面状況もドライ、ウェット、アイス、時にはスノーと刻々と変化し、タイヤ選択が非常に難しいことで知られる。アイスノートクルー(偵察班)の事前報告に基づくペースノートの修正、難しい路面状況でも慎重にタイムロスを抑える運転など、車の性能よりも選手の経験や技量がものをいうイベントである。
SSはレースゲームなどでも再現されたチュリニ峠(Col de Turini
)やシステロン(Sisteron)、ブロー峠 (Col de Braus)などが有名である。チュリニ峠がナイトステージで行われた頃は、つづら折りの坂道を走る車のヘッドライトの光が闇を切り裂く様を指して「長いナイフの夜(Night of the Long Knives)」と呼んだ。1900年代初頭に盛んだった都市間レースが禁止されたあと、自動車競技はサーキット(閉鎖周回路)でスピードを競うレース[注釈 4]と、公道で車の耐久性や運転の正確性を競うラリーに分化していく流れになる。ラリー・モンテカルロが企画された背景には、リゾート地モナコへ富裕層のバカンス客を呼び込もうという観光振興策があった。ヨーロッパ各地の都市から地図を頼りに南仏を目指し、真冬の山道を越えて地中海岸のモナコへ集合するというイベントには、富裕層のカーオーナーを惹きつける冒険的な魅力があった。当初は出発地からモナコに到着するまでの所要時間を競うイベントであり、1日の最高平均速度15.5マイル(約25km/h)、ルート上に設定された100kmを毎日走行するというルールがあった。また、上流階級の社交行事という色合いが濃く、車体のエレガントさやコンディションの審査結果も順位に反映された。
1911年の第1回大会は参加23台中18台が完走し、パリ発(距離1,020km)のアンリ・ルジェ (Henri Rougier) が優勝した。しかし、ベルリン発(距離1,800km)で最も早く到着したフォン・エスマルヒの降着を巡って「フランス贔屓」という批判が起きる。1912年の第2回大会も審議に対する揉め事が起こり、1913年と1914年は開催されず、さらに第一次世界大戦開戦によって10年間の空白期間に入る。
モータースポーツイベントとしての成長1934年出場車フォードV8
大戦が明け、1924年3月にラリー・モンテカルロが再開される。競技形態は第1回大会と変わらず、欧州各国よりスタートしたのは30台となる。この時の優勝車のスペックは、2.0L直列4気筒エンジンの仏車ビニュナン。
翌、1925年には従来通り1月開催に戻され、参加42台に対して完走32台。優勝はルノー・40CV。女性ドライバー、マルティンがランチア・ラムダを駆り2位に入った。スタート地点も各地に散らばっていき、もっとも遠方からのエントラントは北アフリカのチュニスからで、モンテカルロまでの走行距離はおよそ2,400マイル(約3,900km)にも及ぶおおらかな大冒険イベントとしての趣が大きかった。スタート地点ごとに、モンテカルロまでの距離に応じてのボーナスポイントが与えられはじめると完走率も高くなる。
1927年からは参加車両に変わった車[注釈 5]が観られるようになり、マシンの大小・性能差に関わらず、ドライバーやコ・ドライバーの力量が試される競技へと変わっていく。
自動車技術の進歩により、1930年代よりフットワークのあるラリー向けのコーチビルダーマシンが続々と名を連ねるようになっていく。ドナルド・ミッチェル・ヒーリーは既製品メドウズ社製エンジンに積み替えたインビクタ・Sタイプ (Invicta) を駆り1931年に優勝、1932年に2位に入っている。1935年には開発に携わったトライアンフ・ドロマイトで出場するなど、モータースポーツに対する話題性に一躍買っていた。また、仏車オチキスとフォード・V8 (Ford Model B (1932)) 勢にも勢いがあり、1932年から1934年まで3連勝を成し遂げている。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ラリー・モンテカルロは10年間中断する事となる。 戦前の環境下では専ら「選ばれし者とクルマ達による冒険」という趣があったが、10年のブランクを経て1949年に復活を遂げると、各メーカーが販売戦略の一環としてエントリーする巨大イベントのひとつとして変貌を遂げていく。 その変化はエントリー数に見て取れる様になり、1949年のエントラントは204台にものぼり、新興メーカーが低コストで大きな宣伝効果を狙うイベントにもなっていった。ブリストル等の変わり種も多かったが、イギリス・フォードはワークス・チームを編成して参加し始める。また、1951年よりバックヤードビルダーを始めとする英国車の参加が多くなっていくと、他のカテゴリで名声を挙げているスターリング・モス、ルイ・シロンなど有力ドライバー達の活躍により大会ステータスが年々向上していく。また1954年には、こうした選手達による減点ゼロ頻発を防ごうとスピード重視に規則改定し、GPコースでのスピードテストが加えられる。1955年になるとサンビーム・タルボ90 (Sunbeam-Talbot 90
復興変化の中の復活
ワークス・チームの台頭1963年に投入されたミニ・クーパー
1950年代後半より古き善きアマチュア主義の時代は終息して行くようにうかがえた。各メーカーが量産車とは名ばかりのコンベンショナルなラリー専用マシン(いわゆるワークスマシン)を作り上げ、プロフェッショナルなワークスチーム体制でしのぎを削るようになると、アマチュアドライバーが自分の車にわずかな改良を施してフロック等で好成績を得られるような競技レベルではなくなっていった。1963年大会のエントリープレート(サーブ96 エリック・カールソン車)
コンパクト小排気量FF車であるサーブ・96を駆るスタードライバー、エリック・カールソンは、メルセデスベンツ・220SE、シトロエン・DSなど並居るサルーンカーをよそに、1962年・1963年と連覇を成し遂げる。