1973年秋頃から第四次中東戦争含むオイルショックが発生し、多くのモータースポーツイベントが開催中止となる。ラリー・モンテカルロもそれに同調し、1974年の開催をキャンセルする。1年間のブランクを終えた1975年、コンサントラシオンを終えたラリーカーの勢力図はまた大きく変化して行く。
1960年代中盤より、ナイトステージ用にフォグランプ(ドライビングランプ)をステー等を使って後付搭載する様になり、1970年代ともなると一部スポーツカーを扱うチーム[注釈 10]ではライトポッドとして一体型となり、メンテナンスにおいて取り外ししやすい装備形状への合理化と変化がみられる。1970年代前後は、路面の積雪や凍結状況をペースノートに的確に反映させる「アイスノートクルー」が普及する途上で、チーム-ドライバー間の無線交信が普及しておらず[注釈 11]、観客がコース上に投げ入れた雪塊に、ドライ路面を得意とするスポット参戦の準レースドライバー達が足をすくわれ、結果に影響を及ぼす場面も時折見受けられた。 日本のワークスチームで最初にモンテカルロに挑んだのは日産自動車であった。ダットサンチームの名の下、1965年より1967年までブルーバード1600SSS、1968年、1969年はフェアレディ2000、そして1971年から1973年に240Zを投入。 1968年は若手のハンヌ・ミッコラがフェアレディ2000で9位入賞、1971年は優勝経験のあるラウノ・アルトーネンを招き240Zで5位、後のオペル(GM・ユーロハンドラー)チーム監督として手腕を発揮する事になるトニー・フォール
日本のエントラントによる挑戦
ワークス参戦
1979年、1980年にはWRC常連勢(トヨタ・セリカ等)の他にもホンダ・シビック RS等のスモールハッチがスポット参戦した。
1991年、トヨタ・セリカ GT-FOURが日本車として初優勝を飾って以来、三菱自動車やスバルの全盛期を含め、2000年代前半まで常時日本車が優勝争いをすることになる。
2017年、モンテカルロからTOYOTA GAZOO Racing Europe(代表:トミ・マキネン)がヤリスWRC(ヴィッツ)の2台体制で参加。ドライバーはヤリ-マティ・ラトバラとユホ・ハンニネン。テストドライバーはエサペッカ・ラッピ。 1970年代、この日産の活躍に刺激を受けた日本人ドライバーが次々とラリー・モンテカルロにプライベーターとしてスポット参戦する。 WRC組が混走となる1973年、トヨタ自工(当時)の山口義則によるトヨタ・セリカの初参戦を皮切りに、1975年には松波登が猪熊洋文と組み、富士重工(当時)のスバル・レオーネで出場し、1976年には後にWRCのシードドライバーとなった柑本寿一が森川修と組んで日産・サニー1200で出場。翌1977年には柑本は石垣勉と組み日産・サニー1200で総合32位完走。同年、中川一が日産・サニークーペで森川修と組み完走。1979年は同組がマツダ・RX-7でエントリー、クラス優勝する。柑本はその後ブルーバードターボ、シルビア等で5回出場。。森川は押しも押されもせぬ日本人名コ・ドライバーとなり、1990年代後半まで折に触れ出場し、1997年には日下部保雄と組んで英ローバーのワークス・ミニ・クーパーSで当時のアルベール王子杯(Challenge Prince Albert de Monaco[3])クラスで出場している。 日本人による最多出場は1980年から1991年にかけて、歴代「日産・パルサー」で出場し続けた石川英正の11回となる。また、森川修もWRC 6回と後述のヒストリック8回の計14回となっている。 2006年、PWRC(プロダクションカー世界ラリー選手権)では、三菱ランサーエボリューション\で出場した奴田原文雄が優勝した。この成績は欧州圏外のドライバーとして初めての優勝であり、その後この記録は破られていない。
プライベーターによる活躍
1973年以降の優勝者 ミシェル・プティ
1975年 サンドロ・ムナーリ マリオ・マヌッチランチア・ストラトス HF
1976年
1977年 シルヴィオ・マイガ
1978年 ジャン=ピエール・ニコラ Vincent Laverneポルシェ・911
1979年 ベルナール・ダルニッシュ アラン・マエランチア・ストラトス HF
1980年 ワルター・ロール クリスチャン・ガイストドルファーフィアット・131・アバルト
1981年 ジャン・ラニョッティ ジャン=マルク・アンドレルノー・5 ターボ
1982年 ワルター・ロール クリスチャン・ガイストドルファーオペル・アスコナ 400
1983年ランチア・ラリー037
1984年アウディ・クワトロ A2
1985年 アリ・バタネン テリー・ハリーマンプジョー・205ターボ16