ラリー・フリント
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1968年から弟のジミーと当時ガールフレンドで後にラリーの妻となるアルシア・リージャーと共に経営するようになり、オハイオ州アクロンクリーブランドコロンバスシンシナティトレドにも店を構え年に7万5000ドルから10万ドルも稼ぎ出すようになった。またこの時独身男性向けのタブロイド紙をデイトンにてフランチャイズで約2年間発売していた。加えて自動販売機のレンタル会社も起こしたがこの事業は失敗に終わった。
ハスラー創刊

1972年3月、ラリーは自身のクラブの情報を掲載することを目的とした「ハスラー・ニュースレター」(Hustler Newsletter)を創刊した。創刊当時は黒白2色刷りの4枚程度の小さな雑誌に過ぎなかったが、客の間で好評を博し2ヵ月後の5月には16ページに増頁、そして1973年の8月には32ページにまで成長した。しかし、1973年の半ばからアメリカの景気が悪化したことによりクラブから客足が遠のきクラブ経営は壊滅的な打撃を被った。そのためラリーはハスラー・ニュースレター事業に軸足を移し、自身の店の宣伝雑誌からアメリカ全土をカバーするポルノ雑誌に転換することを決意した。

そして1974年7月、ポルノ雑誌「ハスラー」(Hustler)を創刊した。創刊に必要な費用はハスラー・クラブの税金として納めるべき資金を充当してしまった。創刊後2?3号はぱっとしなかったもののその後劇的な利益をあげるようになり、経済的苦境を免れることができた。
過激な内容

1974年11月にはハスラーは初めて女性器を露にした写真を掲載した。このような過激な雑誌であったため、ラリーは雑誌を出すために雑誌の流通関係者も含め多くの敵を相手にしなくてはならず、市場からハスラーを締め出す圧力もかけられた。

その後間もなく、ラリーはパパラッチから1971年に隠し撮りされたジャクリーン・ケネディ・オナシス(撮影当時41歳)のヌード写真を買取るようもちかけられ、それを1万8000ドルで買取し1975年8月号でこれを掲載した。当然のことながらこの号はアメリカのみならず全世界で注目を集め、発売後たったの2?3日で100万部が売れ、ラリーは一躍ミリオネアとなり豪邸を購入した。
銃撃される

1978年3月6日ジョージア州グイネットにてラリー自身がわいせつ事件の裁判に出廷する際、郡裁判所の付近で待ち伏せされラリーの弁護士ジーン・リーブスとともに銃撃を受けた。

弁護士のリーブスは治療の甲斐もあって回復したが、ラリーはこの銃撃により下半身麻痺の後遺症が残った。その後白人至上主義連続殺人ジョゼフ・フランクリンが襲撃を認める供述を行った。フランクリンは襲撃の理由についてハスラーに黒人白人性交している写真を掲載した為であると供述している。ジョセフの供述には不明確なところもありその信憑性を疑う声もあるが、ラリーは彼の供述を信じているというコメントを発表した[1]

犯人の死刑執行は2013年に行われたが、ラリーは死刑執行の目前「彼に自分と同等の傷を与えてやりたいと思うが、私は彼を殺したいとは思わない」として死刑執行の回避を当局に求めていた[2]
政治的傾向ハスラーのブース

1980年代もハスラーは順調な売り上げを見せた。しかしフリントは、右派のロナルド・レーガンキリスト教原理主義者、及び保守化したラディカル・フェミニストのポルノ反対団体から激しい非難を浴びるようになった。襲撃事件の後ラリーはキリスト教の信仰を止め、妻とともにロサンゼルスに移った。サンタモニカに居住する。

2017年10月15日、ラリーはワシントンポスト紙にドナルド・トランプ大統領の失脚につながる情報提供者に賞金1000万ドルを贈呈するとの全面広告を出した。「最大の心配事は、気候変動による大災害が起きる前に、トランプが世界核戦争を引き起こしかねないこと」として大統領弾劾に向けた行動を起こすようアピールを行っている[3]
死去

2021年2月10日、ロサンゼルスの自宅で死去した。死因は心不全と見られている。78歳[4]


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