ラリー・サンガー
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Nupediaの遅々とした進行に疑問を抱いたサンガーは[23]、2001年1月にウィキを用いて執筆編集作業を効率化することを提案する[24]。この提案を形にしたものが2001年1月15日に公式発足した英語版ウィキペディア(以下、単に「ウィキペディア」)である[25][26][27][28]

サンガーはNupediaの活動の中心的存在であったため、ウィキペディア立ち上げの際には先頭にたってプロジェクトを進行し、名付け親となり、基本的な方針の大部分の構想を行った。この中には「あらゆるルールを無視せよ」および「中立的観点」というポリシーも含まれている[29][30][31]。サンガーは2001年1月15日から2002年3月1日までの期間、ウィキペディアで唯一の報酬を受け取る編集者だった。2002年2月にBomis社がサンガーの給与支払いを停止するまでNupediaとウィキペディア双方で働くとともに宣伝活動も行い[31]、3月1日にNupediaの編集主幹およびウィキペディアのチーフ・オーガナイザーの職を辞した[32]。サンガーは両プロジェクトでボランティアとして参加することをやめた理由として、パートタイムのボランティアでは満足に参加することができないからだと語っている[32]。 Nupediaはその翌年閉鎖した[33]

2004年12月、サンガーはウェブサイトKuro5hinにおいて、「プロジェクト内部に社会的・政治的に有害な雰囲気が存在」しており、そのことも彼の離脱の原因となっていると述べた批判記事を発表した[34]。「ウィキペディアのメリットは十分に評価する」として「その使命と基本的なポリシー」はよく理解しており支持する、としながらも、このプロジェクトには深刻な問題があると述べている。彼によれば、このプロジェクトは信頼性において一般的な認知がなく、「問題のある人々、荒らし行為をする人々、そしてその機会を与える人々」に檜舞台を提供するものになっている。こうした問題(→ウィキペディアへの批判[35]は、このプロジェクトの「反エリート主義、換言すれば専門的知見に敬意を払わないこと」の帰結であると述べている[34]。この記事はブロゴスフィアにおいてさまざまな反響を呼び、ニュース・メディアでも取り上げられることとなった[36][37]
ウィキペディアの立ち上げについて

現在、ウィキペディアの事実上のリーダーを務めている[38]ジミー・ウェールズは、2004年以来、サンガーがウィキペディアの創設に参加したことを積極的に認めない言説を行っている[39]。サンガーは一職員であり[6]、ウィキペディアの共同設立に関しては「当初、同僚の中で(設立を)笑い話以外のものとして考えた者は一人もいなかった」とウェールズはいう[40]。一方、少なくとも2001年9月時点ではサンガーは共同設立人と認知されていた[41]

サンガーがwikiを初めて知ったのは2001年の1月2日、ウォード・カニンガム(Ward Cunningham)のwiki(Ward's Wiki)の常連だったプログラマー、ベン・コヴィッツ(Ben Kovitz)と夕食を共にした席でのことである[7][8]。サンガーはwikiは有用なプラットフォームになると考え、当時Bomis社の代表だったウェールズにこのアイデアを伝えることにした[42]。サンガーはウェールズにwikiのコンセプトを説明してこれをNupediaに応用することを提案し、ウェールズは当初疑問をもっていたが結局同意して実行に移すことにした[43]。wikiのアイデアを提示した後、サンガーは正式に「wikiをつくろう」(Let's make wiki)[43]というNupediaのfeederプロジェクトを立ちあげ、Ward's Wiki上に「WikiPedia」という新規ページを作成した[44][45]

ウェールズは「非専門家」が参加できる百科事典の基本的なアイデアをNupediaに由来するものであるとしている[46]。ウェールズは以前、2001年10月の時点で「ラリーがウィキを使うアイデアをもってきた」と述べていたにもかかわらず[24]、最近ではウィキのコンセプトを最初に知ったのはジェレミー・ローゼンフェルド(Jeremy Rosenfeld)からであると述べることがある[47]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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