ラムゼイ・マクドナルド
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かつてはヘンリー・ハインドマンの社会民主連盟のメンバー[2][3]で、労働党代表委員会の主事、初代労働党書記長を務めた。1903年にウィリアム・グラッドストンの子であるハーバート・グラッドストンと交渉して自由党とリブ・ラブ合意を締結した。

1911年にマクドナルドは労働党の党首に就任するが、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、平和主義者のマクドナルドはそれへの参戦に反対し、党首の座を追われた。第一次世界大戦後の1922年に労働党党首選挙がなされることになり、マクドナルドはそれに立候補した。現党首のジョン・ロバート・クラインスを破って、マクドナルドが当選し再度党首に就任した。
史上初の労働党政権の発足と瓦解「ソビエト連邦の外交関係」も参照1923年イギリス総選挙後の党派別議席割合。三党鼎立の様相となった。青が保守党、赤が労働党、黄が自由党。いずれの政党も過半数を制しておらず、第三党の自由党がキャスティング・ボートを握った。

保守党出身の首相、アンドルー・ボナー・ローが病のため1923年に退陣し、同じく保守党のスタンリー・ボールドウィンが新首相に就任、第一次ボールドウィン内閣(英語版)が発足した。ボールドウィンは、かつてジョゼフ・チェンバレンが提唱した、後のブロック経済の先駆のような政策である帝国特恵関税制度(英語版)の支持者で、外国製品に輸入関税を課すことを主張した。保守党内の党内抗争もあり庶民院は解散され、総選挙となった(1923年イギリス総選挙)。労働党と自由党はこの選挙で共闘し、ボールドウィンの主張する保護貿易によって食糧価格が高騰すると有権者に訴えた[4]。1923年総選挙の結果、保守党が第一党、労働党が第二党、自由党が第三党となったが、いずれの政党も庶民院の過半数を制することができず、三党鼎立の様相となった[4]

前首相のハーバート・ヘンリー・アスキス(自由党)は、労働党政権発足に協力する姿勢を見せ、自由党の閣外協力により第一次マクドナルド内閣(英語版)発足の運びとなった[4]。ボールドウィン率いる保守党は下野することになった。しかし自由党内には、閣外協力によって社会主義政権がイギリスに誕生することに不満を持つ者もおり、自由党右派のウィンストン・チャーチルは党を離党した[4]

マクドナルドは他の労働党党首とは異なり、労働組合との距離を置き[5]、労働党主流派とも一線を画し、いわゆる劇場型の政治を展開した[5]。マクドナルドはカリスマ型の指導者であった[6]

マクドナルド内閣は失業手当の増額や、労働者向けの賃貸住宅の建設を進め、さらに「税なしの朝食」というキャッチコピーを掲げ、コーヒー・砂糖などに掛かる関税の減税を図った[7]。しかし自由党の閣外協力に依存しているという立場上、労働党が掲げていた生産手段(基幹産業)の国有化は、自由党の離反を招きかねなかったので実行しなかった[7]。外交では、ソ連との国交を樹立した[7]。マクドナルドは共産主義革命(及びコミンテルンを通して各国を共産化させる行為)に反対していたが、ソ連との友好関係の構築自体は、平和をもたらすものであるとした[8]

マクドナルド内閣では、労働党内の急進左派の存在が保守党や自由党に問題視された。急進左派勢力であるクライドサイダー(英語版)は過激な左派政策を主張していたが、マクドナルドは労働党に政権担当能力があることを国民に示す必要があると考えており、漸進主義に立脚して慎重に社会改良政策を進め、急激な改革の実行は避けた[7][9]

保守党党首のボールドウィンは、労働党の掲げる漸進的な社会改良主義は、共産主義とは別物と考えており、労働党に対して一定の理解を示していた[10]。国王側近の初代スタンフォーダム男爵アーサー・ビッゲ(英語版)は、「ボールドウィンは首相マクドナルドを好み、信頼している。彼はしばしば首相と興味のある話をしていた。彼は首相が共産主義に対して冷静に断固として反対するであろうと考えていた」と評している[11]


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